2011年12月16日金曜日

(墓93) 消し飛んだ「葬儀不要論」

「連日、何件もの葬儀をしています」
 石巻で被災した知人僧侶は語った。
 震災からまもなく6ヶ月。だが、犠牲者の葬送はなおも続いている。
 夏を迎え、各地で仮埋葬した棺の掘り起こしが開始されたことが大きい。掘り起こしの現場は強烈な腐臭が漂い、棺は朽ちている。作業員たちは手作業で棺を掘り起こし、棺から遺体を取り出し、ていねいに洗浄してから新しい棺に納め、火葬場へ運ぶ。
 火葬後、葬儀を行うのだ。
 これまでは踏ん切りがつかずにいた遺族たちが、肉親の死を受け入れ、葬儀を依頼しているケースもある。
 通常の葬儀とは違って通夜はなく、葬儀だけというパターンが多い。葬儀後、通常なら納骨となるわけだが、墓地が被災していれば納骨は不可能だ。そこで、遺骨は寺に預けられる。
 昨日(9月1日)、石巻のある被災寺院の墓地で瓦礫撤去の作業を手伝った。その時見たのだが、骨箱を胸に抱いた喪服姿の人々が何組か、寺を訪れていた。
 その寺院の本堂は1階の高さまで津波に襲われたが、躯体は残った。一方、墓地は絶望的な被害を受けた。
 4月の情景は壮絶だった。近くの製紙工場から流出したパルプが水を含んでぐちゃぐちゃになり、汚泥と混ざり合って、地面やなぎ倒された墓石に堆積。その上に、材木や家財道具、自転車や生活用品が散乱し、仰向けの自動車や魚が転がっていた。
 数多くの人々がボランティアでの作業を続けた結果、現在では見違えるようにきれいになった。だが、墓石は倒れたまま。いまだ納骨はできない。火葬を済ませた檀家たちは、寺に遺骨を預けている。
 骨箱を寺に預けて寺から出てきた人たちは、安堵の表情だった。
 被災地で、何度もこの表情を見てきた。「どんな形でもいいからせめて葬儀を出してあげたい」と語った人もいた。その人の家族は行方不明だった。
 3月や4月は、棺や野位牌などの葬具も不足していた。棺を自作した葬儀社もあった。遺族のなかには着の身着のままの服で葬儀に参列した人もいた。
 それでも、葬儀をやめようとか葬儀は不要など、誰も言い出さなかった。
「そういう声を聞いたことがありません」。石巻葬儀社の太田かおり専務は語る。太田さんは、津波で父を亡くした。
 父の葬儀はまだしていない。「地域の方々の葬儀が先です」。それが父の遺志と思っている。

消し飛んだ「葬儀不要論」

 震災前に「葬儀不要論」なる暴論がまかり通っていた。
 だが、いまや被災地からそのような声は消し飛んだようだ。平時の戯言でしかないことを、震災が教えてくれた。
 葬儀だけではない。墓や位牌、仏壇といったものを媒介にした先祖供養も同様だ。先祖供養などしても、生存は保障されない。しかし震災後、墓を見に行った人は多い。先述の太田さんも自転車と徒歩で墓の安否を確認しに行った。
 3月17日、決死の地上放水が福島第1原発で開始された。この日、自主避難によってゴーストタウンのようになっていたいわき市内を取材していたのだが、ある寺院に立ち寄ると、地震によって多くの墓石が倒壊していた。そこに、何人かの人がやって来た。「墓が心配なので」という。
 当時、放射能の恐怖は未知数だった。食料も水もガスもない状態で、それでも墓を心配する被災者がいた。「墓不要論」も、もはや存在しないようだ。
 4月、石巻の別の寺院で、ある家族が寺を訪ねてきた場に居合わせた。「寺に預けた位牌が心配で見に来た」。そしてその無事が確認されると、彼らは安堵の表情を浮かべて避難先へ帰っていった。
 死者への祈りが、生者の明日へのエネルギーになっている。そう、確信した。
 同じような光景は、別の場所で何度も目にした。
 「葬儀回帰」「供養回帰」の動きは、他の地域へも波及している。都内のある業者は、「震災後、葬儀に対する遺族の思いが以前と違う。葬儀をあげることへの真摯さを感じる」と語っていた。
 葬送の現場に立ち会う者は、葬儀不要論などは「死ぬゆく自分」のことだけを考えた極論であると知っている。いや、葬儀不要論に踊らされた人々のいったい何人が、真剣に「死」を考えたのかも怪しい。
 被災地での葬送に接し、死者と生者がどのように関わっているのか、その現場を見れば、納得する。葬儀や先祖供養は、決して死者のためだけに行われるわけではない。

(2011年秋・某誌に指定された文字数で書いたら、直前に大幅に削られて、今読み返してもおかしな記事になっていた。そこで、削られる前のものを掲載する)

2011年4月9日土曜日

(墓92) 広島ペルー協会/ペルー慈恩寺で記念法要


日系校児童ら、先祖供養に感銘

 民間の国際交流団体である広島ペルー協会(小林正典会長)では設立20周年を記念し、2月後半にペルーを訪問した。訪問団の参加者は11人だった。
 19日(現地時間)には、南米最古の仏教寺院・泰平山慈恩寺(曹洞宗/リマ県カニエテ郡、無住)において、協会が施主となってペルー日系先没移民追悼法要が厳修された。導師は岩垣正道師(曹洞宗/岡山県真庭市毎来寺住職)、脇導師は清涼晃輝師(曹洞宗/同県津山市少林寺住職)が勤めた。
 岩垣師は広島ペルー協会と縁があり、平成11年にも協会の訪問団とともにペルーを訪れ、慈恩寺で法要を営んでいる。
 今回は、リマ市の瑞鳳寺(ペルー曹洞禅グループ)の僧侶らは不参加だったが、広島ペルー協会がチャーターしたバスにリマ市のペルー広島県人会(フェルナンド・カワグチ会長)、ペルー岡山クラブ(エレナ・ニシイ会長)の会員多数が乗り込み、随喜した。また、リマ市の日系校であるヒデヨ・ノグチ校(フアナ・ミヤシロ校長)の初等部、中等部(日本の中学、高校に相当)の児童生徒のほか教員、リマ市に在住する日本人有志はじめ、地元カニエテの日系人も参加。慰霊の心と温かい雰囲気に満ちた法要となった。
 法要はヒデヨ・ノグチ校の児童生徒による内陣への献灯式から始まった。続いて導師・脇導師の入堂、追悼文、散華の後に般若心経の誦経があった。日本語が読めない参加者のためにローマ字の振り仮名がついた経文が配られた。参加者は、たどたどしい口調ながらも僧侶の読経に声を合わせた。
 焼香ののち、岩垣師は「先駆者が築いた慈恩寺を皆さんは護ってきた。先駆者たちが残した『先祖を敬う』という種を皆さんが咲かせているのは素晴らしいこと。これからも、慈恩寺を護ってください」と法話を述べた。
 各県人会の参加者からは「散華の意味は?」「なぜ焼香をするの?」などの質問が相次いだ。ヒデヨ・ノグチ校の生徒は、「日本人は、死後も子孫と交流するということを実感しました」と興味深そうだった。ミヤシロ校長によると、その後数日、慈恩寺法要の話題で子供たちは盛り上がっていたという。
 法要に先立ち、同郡内のカサ・ブランカ日本人墓地およびサン・ヴィセンテ公営墓地内の日本人慰霊塔で岩垣師を導師とする法要が営まれた。南米の灼熱の日差しの下、先駆者を弔う経文が朗朗と読上げられ、参列者の焼香の列が続いた。
 慈恩寺が位置するカニエテは、首都のリマ市から南へ約150キロの距離にある。

開山堂が完成

 平成22年8月22日、本堂に隣接する事務所を改装し、開山および歴住を祀る開山堂が完成した。費用は曹洞宗宗務庁が負担した。
 堂内には開山の上野泰庵師(在籍1907~17帰国)、第二世・斎藤仙峰師(1917~19遷化)、第三世・押尾道雄師(1919~27帰国)、第四世・佐藤賢隆師(1926~35遷化)、第五世・新開至賾師(1951~53遷化)、第六世・清広亮光師(1961~92遷化)の遺影および位牌のほか、第四世の佐藤師の後任として赴任するも、カニエテを去ってリマ市に宗門公認の中央寺を開いた中尾證道師(在任1935~41帰国)の位牌も祀られている。遺影は、2007年の慈恩寺創立100周年に際し、慈恩寺有志の会が寄贈したものである。【報告=太田宏人】


写真説明
法要後の記念撮影(慈恩寺本堂)

(墓91) 風評被害でゴーストタウン化 いわき市、弔いを必死で守った葬儀社社員






 17日、福島県いわき市を取材した。
 薄磯・豊間地区がとくに甚大な津波被害を受けた。いわき市の市街地から両地区へ向かう道の応急処理は終わっていたが、ところどころに亀裂や陥没があった。大型トラックが道路の路面ごと陥没しているなど、地震の爪あとはいたるところで目にした。
 記者は東京からガソリン持参で、原付バイクで向かった。ガソリンの購入が難しいことは分かっていたので、消費量の少ない方法を選んだ。
 薄磯北街などの集落は壊滅していた。津波の破壊力は、海沿いの人々の生活と人生を根こそぎ潰してしまった。そのほかの集落も、建物や車が流され、道路の両側にも瓦礫が積み上げられていた。
 同市の市民で現在までに分かっている死者は約150人。このほかにもまだ行方不明者が多数いる。しかし、遺体の収容作業は進まない。作業に当たる自衛隊や警察の人員不足が原因だ。ライフラインの復旧の目処が立たず、余震も続いて建物の倒壊の危険もある(市内の各所の地価にはかつての炭鉱の行動が無数に走っており、地盤がもろい)。宿泊施設はなく、放射能による風評によって食料とガソリン、日用品や医薬品などの供給が止まってしまった。これではボランティアは受け入れられない。いわきはまだ、復興期ではなかった。
 市の中心部は完全にもぬけの殻である。沿岸部以外の中心部等では市民が地震後も住んでいた。ところが市内の一部が屋内退避対象地域に指定されたために風評が発生。物流業者がいわき市を嫌って、物資が来なくなった。店は軒並み閉店した。「東京電力が撤退した。自衛隊が冷却作業をやっている。これはもうだめなのではないか」という噂が市内を駆け巡った。
 極端に食料とガソリンが不足し、病院や行政の機能も止まり、32万人の市民のうち、大半が脱出した。
 ワゴンタクシーに布団や衣類などを詰めて市外へ逃げる家族がいた。「お金などいくらかかってもいいから、いわきから出たい。ガソリンがないので車は出せない」という。
 人のいないガソリンスタンドの前には数キロの車列があった。「明日、ローリーが来ることを信じて待つ」という。来ないかもしれない。営業しているスタンドには、もっと長い順番待ちの車列があった。最後の人まで買える保障はなさそうであった。
 沿岸部で発見された遺体を、市内3か所の遺体安置所へ運ぶのは警察の仕事だが、警察車両でさえガソリンが尽きていた。ある警察官は、「もう限界です。遺体を運べません」ともらした。

遺体をどうすることもできない

 市内の大手葬儀社に勤務するA氏は、震災発生後からボランティアで遺体の発掘や運搬に全身全霊をかけてきた。だが風評被害で燃料がなくなった。社長の判断で、勤務は志願制になった。最後まで残った4人のうち、A氏はリーダーだった。
 この葬儀社では一時期、身元が分かった遺体を30数人預かっていた。火葬の順番待ちである。このほか、自宅に安置した故人が何人かいる。
 しかしもう燃料がない。自衛隊も遺体の捜索を一時中止すると聞いた。警察も根を上げている。火葬場の稼動も止まるという。
「放射能で避難命令が出たら、うちで預かっているご遺体をそのままにして逃げることはできません」。実際、いわき市の一部が屋内退避に指定されたときも、突然だった。市にも事前通告はなかった。
 A氏たちは、預かっている遺体をとにかく火葬にし、遺骨を遺族に渡すことだけを目標にしてきた。しかし、火葬の数が多すぎてなかなか順番は回ってこなかった。A氏は毎日毎食、家族が炊き出してくれたおにぎりだけを食べてきた。
 A氏たちは18日、最後の7人の火葬を終えた。
 この遺体のうち、二人は祖母と嫁だった。祖父と孫は、まだ行方不明だ。残りの二人を見つけ、火葬にしてあげたかった。それができないことで、A氏は自分を責めていた。
 水が充分にないので、遺体を洗うこともできなかった。ほとんどの遺体が損傷し、顔には泥や砂、血糊がついていた。それでもできるだけ綺麗にして納棺した。僧侶は逃げたか被災しているので、読経がない。非常事態なので葬儀は後日に厳修することになるとしても、「せめて読経だけは…」と、僧籍のあるA氏はすべての火葬で、経を唱えた。
 A氏は疲弊しきっていた。絶望感と後悔がこちらにも伝わった。
 18日で、この葬儀社もすべての業務を終え、一時徹底する。「食料もなく、放射能が怖いからです。今残っている我々の家族は市内に住んでいます。子供たちを被爆させたくない。…人間ですから、自分もまだ死にたくないです。しかし、こんな中途半端にやめるのなら、はじめからやらなければよかった」と、A氏は悲痛な声を上げた。
 写真は断固拒否。「こんな私には、新聞に載る資格はないのです」。しかし、彼を非難できる人間などいるのだろうか。
 自身も放射能の恐怖と戦いながら、制約された条件下で、必死に人々の弔いを守り続けた人間が、ここにいる。
 後日、彼からメールが届いた。「私はいわきに残ります。この街が復興することを信じています」。
【いわき市より報告:太田宏人】
週刊「仏教タイムス」3月24日、31日合併号掲載

写真:薄磯地区の惨状/葬儀社には故人の名のない花輪が並んでいた/18日の火葬を待つ遺体(いずれもいわき市内で)