2010年11月6日土曜日

(墓90) ワラ人形の話





ワラ人形の話


 「ワラ人形」と聞いて思い起こされるのは、午前二時の丑三つ時。場所は神社の境内。白装束を着けた人が五寸釘を手に…、 という「呪いのワラ人形」ではないでしょうか?
 でも、呪いだけがワラ人形の役割ではありません。
 たとえば、この写真のワラ人形。これは、同じ家から同じ年のうちに二人の葬儀を出すことになった時、二人目の柩の中に一緒に納めるものです(この人形は葬儀社の社員のお手製。こういうものも作っているのですね、葬儀社では)。
 地域によってはコケシを入れたり、ぬいぐるみで代用する場合もあります。
 なぜこういう習慣があるのかというと、その背景には、同じ家から一年のうちに二人の葬儀を出すと、三人目も「呼ばれる」という民間信仰があるからです。ワラ人形は、三人目の身代わりなのです。
 この風習は昔からあり、明治時代の日本人の生活を記録した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンも「人形の墓」(『仏の畑の落穂』所収)という作品で同様の習俗を報告しています。
 この作品は、三人目の死者を出さないために、人形を納める墓を作る…、という話になっています。
 火葬が一般的でなかった時代の、貴重な記録といえると思います。

 民間信仰というのは、現在の私たちには忘れられてしまっていても、身近なところに残っているようです。たとえば、何気なく行っている葬儀も同様。私たちの民族が昔から受け継いできた素朴な信仰に基づいている部分が、葬儀という営みのなかに息づいています。
By Hirohito OTA

※某葬儀社の企業ブログに投稿したもの。

2010年10月7日木曜日

(墓89) 大日本帝国 幻のコイン「陶貨」

大日本帝国 幻のコイン「陶貨」
文・太田宏人

 靖国の英霊には申し訳ないが、太平洋戦争は無謀だった。日本には資源もないのに、戦線を拡大し続けた軍上層部は阿呆だったとしか思えない。資源の不足は戦力の不足に直結した。長期の消耗戦で必要なのは精神力よりも物資だった。
 戦争を続けるため、一般家庭からも金属が供用された。貨幣用のアルミもなくなり、代用資材の錫も消えた。昭和19年10月、造幣局では苦肉の策として「せともの」で貨幣を作ることにした。これが陶貨だ。
 造幣局には陶器の技術はない。そこで製陶業の盛んな各地(瀬戸、有田、京都)に命じて、数千枚とも数千万枚とも言われる陶貨が生産された。額面は10銭、5銭、1銭の3種類。組成は粘土7割に石とアルミ等の金属を混入した。
 こうして着々と準備が進められていた陶貨だが、流通に必要な枚数が完成する前に敗戦。陶貨は粉砕処分となった。ゆえに、「大日本帝国最後の幻のコイン」と称される。ただし、終戦時の混乱のなか何枚かが流出したため、現在も遺されているというわけだ。
 現物の1銭陶貨は、京都の義歯メーカーである株式会社松風(しょうふう)の本社展示室で見ることができる(事前予約が必要)。松風は陶貨の製造工場のひとつであった。なぜ義歯の会社が陶貨を作っていたのかというと、昔、義歯は陶製だったためだ。
 編集部がオークションで5000円で落札したという1銭陶貨を見せてもらった。色は赤銅色で、直径はリップクリームのフタ程度。意外に小さい。厚さは一円玉を2枚重ねたくらいである。
 表面には雲のたなびく富士山と「壹」の文字。ネットなどでは、「材質の関係で複雑な図柄は避けられた」と書かれているが、「壹」の文字は小さく、しかも非常に精巧。技術の高さに驚く。裏面は桜の花に「大日本」の文字。床に落とすと陶器の乾いた音のなかに、なんとなく金属的な音も混じっていた。
 陶貨を指先に載せてみる。陶貨は軽いが、そこに凝縮された歴史は、重かった。

(ミリオン出版の雑誌に2010年2月くらいに書いた)

2010年4月19日月曜日

(墓88)尊敬される「皇室らしさ」は消えていくのか?

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尊敬される「皇室らしさ」は消えていくのか?
───南米日系人社会から考える愛子内親王「いじめ」報道

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消滅した学習院のコーポレート・アイデンティティ

 愛子内親王殿下の「登校拒否報道」や眞子内親王殿下のICU(国際キリスト教大学)入学などについて考えてみたい。
 この問題では、葦津泰國氏がメルマガ「斎藤吉久の『誤解だらけの天皇・皇室』」vol.122(3月15日号)に「日本の皇室が『私なき』存在であるという日本人の伝統的な信頼感が大きく傷つけられることになった」と書いている。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4792107/
 同感だ。
 登校拒否報道の問題点は端的に言って、(1)皇室の信頼感へのダメージ、(2)学習院側の対応への不信感、(3)皇室による子弟教育そのものへの懐疑――である。これらの負のイメージが、国民の間に惹起(じゃっき)してしまった。
 戦後、学習院は皇族子弟の教育機関ではなくなったことは、同メールマガジンvol.133にも詳しい。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4820450/
 しかしながら、法的根拠が消滅したとはいえ、皇族、そして国民の側にも「学習院」という固有名詞に内包される「格別な何か」はあったはずである。昨今のビジネス用語でいえば、CI(コーポレート・アイデンティティ)というものだ。しかし、事態は変わった。学習院のCIは消滅したようだ。
 かたや、少子化を受けて今やどの教育機関も存続の危機に瀕しているといっても過言ではない。旧帝大や早慶などの有名校には、確かに子供は集まるけれども、その子供たちの質といえば、これらの大学の学生が引き起こした各種の事件報道(強姦、麻薬使用、麻薬栽培など枚挙にいとまがない)や、彼らの実態をあげつらうまでもなく、情けない限りである。
 それはともかく、まさに憚りなく言えば、学習院もこのような在野の教育機関に成り下がったわけだ。皇族方の意識が学習院から離れ、皇位継承第2位にある悠仁(ひさひと)親王殿下の姉君であり、国民からの崇敬も高いと聞く眞子(まこ)内親王殿下までが、日本の国家像とは根本的に相容れないキリスト教を教育の柱とするICUに進まれる。まさに、学習院の失墜である。学習院は、法人としてのイメージ戦略に失敗したか、戦後も続いた「学習院は特別だから」という学外・学内の意識に安住して、何もしなかったかのどちらかではないか。
 一方、学校の「ブランド力」によって学生は集まるものの、学生の質の低下に悩む各校では、他校との差別化を図るためにも、今後は「皇族獲得」に躍起になり、ひとたびご入学を果たされれば、厚遇で迎えるだろう。


皇室不要論を助長させかねない

 皇室の祭祀は神道であり、天皇陛下はじめ皇族方が親しく祭りを執り行うことこそ、皇室祭祀の真髄なのである。ところが、将来、天皇陛下になる可能性の高い悠仁様の姉君がキリスト教を建学の精神とするICUに御入学するという。この事態には、「国家の危機」という危険性さえはらんでいるといっても、過言ではあるまい(私はキリスト教を否定しているつもりはない。私は神職を養成する大学の出身者だが、妻も娘二人もカトリックである。結婚式も正式な手続きを踏んで、当時住んでいたペルーのカトリック教会で挙げた。ここで指摘しているのは、眞子様のICU御入学である)。
 とはいえ、ヨーロッパへの留学の多い皇族方にとって、キリスト教文化・英語への意識的な垣根は、それほど高くないのかもしれない。仄聞するところによると、一部の皇族方は欧州御留学中に羽目を外しすぎたそうだ。
 学習院の失墜は学習院の失策だろうが、皇室にとっては必ずしも最上とは言えそうにない他の教育機関を選ばれたり、某カルト教団の影響やらがあるとか、留学中の恥ずかしい御振る舞いがある等という報道に接すると、どうも、いまの皇室もしくはその周辺には「私」というか、妙な個人主義が跋扈しているのではないかと危惧してしまうのは、私だけだろうか。
 しかしこれでは、醜聞まみれの各国王族と何ら変わりがない。日本の皇族方も、そのような方向性へ進むことは決定的なのであろうか。
 反権力に酩酊(めいてい)し、対案もなく、国家の方向性を議論することもせず、いたずらに権威に反抗することが良いことであるかのように(まるで子供のように)浅慮する、多くの「言論人・知識人」が盛んに喧伝するように、「皇室などいらない」というプロパガンダを助長させるだけである。
 学習院の失墜に見え隠れする問題は、ひとり学習院の危機ではない。古来、皇室を戴いてきた「日本」のありようを左右しかねないほど深刻な問題であると思う。


海外で皇室に敬意を抱くのは日系人だけではない

 天皇・皇室の存在を否定したがる日本の「言論人・知識人」に見て欲しいのは、外国、とくに南米で皇族方が受ける憧憬、尊敬の眼差しである。彼ら「言論人・知識人」は、日本の歴史と伝統を体現する皇族方が熱烈に歓迎を受けるその現場においても、「皇室はいらない」などと叫ぶ自信はあるのだろうか?
 ここで南米を例に挙げるのは、私の体験に基づく。ほかの欧米文化圏でも、一部の者が皇族方の歴訪に際して抗議運動を起こしたこともあるようだが、それは、まさに、皇族が日本の象徴、いや、日本の代表であると認めたうえでの蛮行であろう。皇室制度を批判したものではない。
 南米にはブラジルやペルーをはじめ、各国で日系移民が奮闘した歴史がある。そして、移住国での日系人の評価は高い。
 日本に住む日本人は、日系人を自分たちの同胞とは見なさない傾向があるようだが、しかし国外においては、日系人への評価は日本人の評価へと直結する。北米でも同じことがいえるのだが、日系人を日本人と明確に区別する意識は、一般的ではないのだ。
 戦後、日本製品が海外で受け入れられたのは、無論、製品それ自体の品質の良さもあるだろうが、各国の日系人への高い信頼を抜きには語れない。また、とくに南北アメリカ大陸では日本製品の販路拡大に日系人がどれだけ貢献したかを、日本の日本人はもっと知るべきだろう。
 近年、南米の各移住先では、日系移民の記念祭が相次いでいる。ペルーおよびペルーからの転住があったボリビアでは平成11(1999)年、ブラジルでは平成20(2008)年にそれぞれ日本人移住100周年を祝った。
 ペルーでの100周年の際には、筆者は「ペルー新報」の記者として同国で生活していた。そのとき、ペルーを御訪問された紀宮清子内親王殿下(当時)を迎える日系人はいうに及ばず、ペルー国民の畏敬の念と熱狂を目の当たりにした。
 100周年式典では、フジモリ大統領(当時)やファースト・レディーである娘のケイコさんらといっしょに、会場となったラ・ウニオン運動場(日系人が作った同国1、2を争う運動場)のグランドを一周された。
 筆者は、記者席ではなく、あえて一般席で取材をしていた。その方が、一般の人々の息吹が感じられるからである。
 フジモリ氏らにとっては失礼だが、紀宮様の放つ神々しさや清浄としか表現しようのないオーラのようなものは、まさに「別次元」であった。いつもは、権威に屈しないことを信条とするペルーのマスコミも、このときばかりは非常に好意的な報道をしていた記憶がある。
 伝え聞いたところによると、紀宮様は両国へのご出発前に、両国のこと、移民のことをかなり真剣に学んでいたという。


「日本のプリンシペ(王子)は心がきれいだ!」

 ブラジルの100周年の際には、皇太子殿下が御訪問された。
 私は、記念式典が行われたパラナ州のホーランジャ市に、その直後、(別件の)取材で訪れている。どこへ行っても、記念式典と皇太子殿下を熱く語るブラジル国民に接することしきりであった。
 ある写真館に寄ったときのことである。店主は日系人ではなかったが、開口一番、「日本のプリンシペ(王子)は凄い!」と語る。
 何が凄いのかという点を、話好きなブラジル人らしく、彼が熱く語ったところによると、記念式典でスピーチした州統領は、予定時間を過ぎても長々としゃべっていた。しかも、どうも自己宣伝が臭う話しぶりであったのに対して、プリンシペは簡潔に、移住者を受け入れたブラジルに感謝し、両国の友好を願い、移住者をねぎらうだけであった、という。
 これに、ブラジル人は感動したというのだ。「清々しい(心がきれいだ)」。
 投票で選ばれる政治家は、大なり小なり自己を宣伝しなくてはいけない。だが、皇族方にはそれはない。まさに、皇太子殿下の「無私」の精神が、ブラジル国民に感動を与え、日系人を感涙させたのだろう。
 付け加えるなら、皇族方が体現する「歴史の重み」というものは、世界にも例がないものである。それだけで、畏怖の対象になるのだ。


慰霊塔に刻まれた「日本臣民ここに眠る」

 再度、憚(はばか)りながら申し上げるが、紀宮様と皇太子殿下の御訪問に際して、日本政府から関係国に対しての経済援助などがあったわけではない。美辞麗句もなく、バラマキODAもなく、日本を象徴する皇族方が、その存在のみで、かくも盛大な尊敬の念を抱かれたのである。このことを我々は深く考えねばならない。
 日本が大国として世界に貢献できるとしたら、それは経済面だけではない。礼節や相互宥和(ゆうわ)、多宗教を認め合うといった「人間が人間であるために必要な部分」を示す、文化大国としての役割だ。これを体現しているのが、皇室外交なのかもしれない。
 「天皇に私なし」といわれるが、近年の日本では「滅私」はとかく評判が悪い。しかし、この美徳は海外にも通じるものだ。無論、南北米州大陸においては、日系人が血で築いた信頼がベースにあるからこそなのだが、いまだに南米各国では(ほかの国でもそうかもしれないが)、天皇陛下が国を統治していると思われている。
 たとえば、ペルー北部のランバイェケ県トゥマン日本人慰霊塔を探訪したときに驚いたのだが、「日本臣民ここに眠る」とスペイン語で書かれていたのだ。
 草も生えない荒涼とした砂丘のうえに、ひとり立つその十字架状の慰霊塔の台座に刻まれた「SUBDITOS(臣民たち)」というスペイン語を見たとき、自己を強烈に再認識した。いつか機会があれば、これからの世代の皇族方にも見ていただきたい慰霊塔である。
 愛子内親王殿下の「登校拒否」問題など、最近の皇室に関する「ニュース」は、諸外国でもかなりの頻度で報道されていると聞く。しかし、その「ニュース」の文脈に現れるのは、個人主義的な「思い」ばかりである。個人主義的な私心の示すベクトルは、南米で皇族方が受けた尊敬の念とは真逆を指している。



太田宏人(おおた・ひろひと) 昭和45(1970)年生まれ。國學院大學Ⅱ部文学部神道学科卒。ペルーの日系紙「ペルー新報」元日本語編集長などを経て、現在はフリー。隔月刊誌「SOGI」などに寄稿中。著書・編著書に『110年のアルバム:日本人ペルー移住110周年記念誌』(現代史料出版)、『知られざる日本人:世界を舞台に活躍した日本人列伝、南北アメリカ大陸編』(オークラ出版)など。

※上記記事は
メルマガ 斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」
http://www.melma.com/backnumber_170937/
Vol.134の掲載原稿に一部加筆したものです。

2010年3月8日月曜日

(墓87)海外布教史の再構築に一言

【曹洞宗】海外布教史の再構築に一言
太田宏人

 一〇月二七・二八の両日、曹洞宗檀信徒会館で同宗総合研究センターの第一一回学術大会があった。その二日目、同センター講師の小笠原隆元氏(長野県廣澤寺住職)が「曹洞宗国際伝道史の再構築」という題目で発表を行った。
 発表の要旨は、同宗宗務庁が昭和五五年に発行するも、その一〇年後の平成四年に同庁による回収図書(いわゆる発禁本)の指定を受けた『曹洞宗海外開教傳道史』についての概略、発禁本指定の経緯、その再構築に関する提案であった。
 自身も同書の編纂委員の一人であった小笠原氏は、発禁本となった理由について「一五ページから一二三ページ等に今日の人権意識に照らして、その意識の欠如、差別的な文言や表現があった」と説明した。小笠原氏は反人権・差別への一定の理解を示したうえで、「海外布教師(現・国際布教師)の長年の苦労が時代の流れによって消え行くのは残念至極」と述懐した。
 同書の発行後、各国に曹洞禅を標榜する禅グループが多数誕生していることにも触れ、これらの新情報を加味しつつ、同書に再考・再検討したうえで「宗門海外布教史の再構築を」と気勢を上げた。
 参加した宗務庁関係者は「学術的な内容ではない。宗門全体の総意でも何でもない、単なる個人的な意見表明だ」と一蹴していた。その是非はともかく、小笠原氏の主張そのものは正鵠を射ている。同宗の海外布教史を網羅的に記した書物は、同書が回収されている現状では皆無である。
 たしかに同書は貴重である。とくに戦前の海外布教に殉じた先人たちの血涙のにじむ記録が刻印されているばかりか、当時の各布教地からの報告書(現在では所在不明なものが多い)等も採録されていて、史料としての価値が高い。
 しかし、『曹洞宗海外開教傳道史』の再構築は慎重に行わなければならない。先述の人権を侵害する文言や差別記述をはじめ、南米最古の仏教寺院を開創した同宗の上野泰庵を他宗の僧と断言してしまっているなど、致命的な間違いが散見されるのも事実だからだ。また、自宗への愛着ゆえの結果か、他宗の開教事情との関連性への配慮に欠如した記述も見られる。海外布教史を再構築するならば、これらの問題点を再検証するとともに、戦前の大政翼賛体制へ組み込まれた宗門の動向を真摯にトレースする必要もあろう。
 とはいえ、当時の布教師たちが夢に見、身命を賭して行った海外布教の歴史を記した唯一の書を、いくつかの難点があったというだけで発禁本に指定し、そのままお蔵入りという処分は先人に対して礼を失するものであろう。さらに言えば、歴史に学ぶという姿勢の放棄ともいえる。記述上の問題点は再校訂を加えればよいのだ。それとも、曹洞宗は戦前の海外布教そのものをなかったものにしたいのであろうか。
 仮に一部の国や地域に対して宗門が加害者の立場にあったとしても、すべての国際布教がそうであったわけではないこともまた事実である。
 欧州や南米に曹洞禅がさらなる浸透を見せる今、同書の問題をいかに超克するかということは、同宗の今後の国際布教の方向性にもかかわってくる重要事項と思われる。
(「仏教タイムス」2009年11月12日号掲載)