2009年9月1日火曜日

(墓85)樋口一葉という深い森

あとがきにかえて


 樋口一葉をちゃんと読んだことはなかった。
 雅俗折衷、文語と口語、古語と(一葉が存命中の)現代語が混在し、王朝文学ばりの流麗さと自然主義の硬質な叙情が織りなす文体は一種独特でとっつきにくい。大きな辞書に載っていない言葉も少なくないうえ、明治時代の風俗風習、ローカルな地名も山盛り。会話には「」が使われないから、いま誰が喋っているのか心の中の独白なのか、一葉さん個人のコメントなのかも不明だ(彼女は時々、登場人物の台詞にツッコミを入れる)。一葉の表現を借りるなら《ことばうやむやしりめつれつ》詞有哉無哉支離滅裂|である。
 だからこそ、現代語訳が刊行されているのだろう。しかし、原文の芳醇な香りは薄らぎ、異質なものに変貌する危険はないだろうか。やはり、原文で味わいたいものだ。
 しかし、原文をすらすら読むことは学者でもない我々には難しい。そこで本書では脚注をつけたほか、句読点や注釈記号の配置を工夫し、会話部分を読みやすくした。歴史的仮名遣い(旧仮名)については音便変化を採用。「ょ」「っ」等を小書きにしている。つまり、「読みやすい原文」に再編集したわけだ。いまだ試行錯誤な部分もあるが、樋口一葉という豊かな森――有名ではあるが、いつの間にか人跡まれになっていた――を散策するには、こういう道の辿り方があってもいい。
……◎……◎……
 樋口一葉は今から百年以上も前の明治二九年、数え年二十五歳という若さで死んだ。肺結核だった。今で言ったら、女子大生が卒業するとかしないとか、そんな年齢だ。時代背景が違うにしろ、早すぎる。
 本書には、森鴎外らの絶賛を浴びた代表作「たけくらべ」はじめ、いわゆる一葉晩年の「奇跡の十四か月」の作品群を中心に、十一編の小説を収めた。ただし、多くの物語がハッピーエンドを迎えない。ここに、一葉の抱える闇もしくは、大人の女の情念を感じた。
 子どものころに読んだことがある人もこれが初めてという人も、彼女の情念の森に、いまだからこそ迷い込んでみてはどうか。この森の深部には、大人にしかたどり着けない秘密の場所が、あるのかもしれない。

(編集担当・太田宏人)
『原文で一度は読みたい樋口一葉』 (OAK MOOK 212)オークラ出版 (2008/5/23)