2008年12月3日水曜日

(墓83)「涼恵コンサートin Brasil」大成功

 新渡戸稲造の後裔で、シンガーソングライター・涼恵さん(神戸市/小野八幡神社権禰宜)の里帰りコンサートがこのほど、ブラジルで行われた。
 涼恵さんはサンパウロで生まれ、2歳まで同地で育った。「里帰り」は10年ぶり。今回は、今年が日本人ブラジル移住100周年にあたるため、それを記念したコンサート・ツアーとなった。
 11月5日のブラジル日本文化福祉協会・記念講堂(サンパウロ市東洋人街)のコンサートは、日本学生海外移住連盟の発足50周年を記念した日本映画の上映会とセットで行われた。300人を超える聴衆は、涼恵さんの独特の歌唱力と雰囲気に息を呑んで耳を傾けていた。涼恵さんは「生まれた地で、初めて行うコンサートに感無量です」と感激しきりだった。
 曲目は、「この道」「涙そうそう」「故郷」のほか、「さくら道」「豊葦原の瑞穂の国」「水の惑星」のオリジナル曲。
 その後涼恵さんは、マナウス等でのコンサートを二回行い、各地の日系人に盛大な歓迎を受けたもよう。

写真は、ブラジル日本文化福祉協会・記念講堂で熱唱する涼恵さん

以下は、当地の日本語新聞の記事
http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=26277

2008年10月8日水曜日

(墓82)大分「置地蔵事件」/鉄道で地蔵を粉砕

大分で「置石」ならぬ「置地蔵」事件が勃発
自殺供養の石地蔵を線路で粉砕
徹底的な現場検証で浮かび上がった犯人像
警察も知らない目撃情報をキャッチ
取材・写真・文/太田宏人



 2006年。大分市内の某神社で、境内で暮らしていた多数の野良猫がボーガンか何かで惨殺される事件が起きた。地元の人々は、「若いものの犯行」「若い奴等は」などとウサワをしていたそうだが、この惨劇は、なにか、その後の事件のエピローグを飾るようでもあった。
 そして今年(2007年)の7月25日。多くの人が顔をしかめるものの、新聞の第一面を飾るほどでもなく、被害者がいるわけではないが強いて言えば「死者」が被害者になるという、すこし奇妙な事件が、大分市の郊外で発生した。
 事件発生は午前6時12分ごろ。大分市元町のJR九大線・古国府(ふるごう)トンネル入り口で、この日の一番列車である大分発日田行き上り普通列車(2両編成)が、大きな石のようなものに衝突し、緊急停車した。
 乗員乗客にけがはなかったが、車輌前部が破損した。運転士が調べたところ、現場付近には多数の石片が散乱していたという。
 置石である。だが、置石にしては衝突の衝撃が大きく、石の破片も多い。
 運転士からの通報を受けた警察が調べると、これは、現場近くに祭られていた石仏の地蔵尊であることが分かった。重量は約20キロだった。
 地元民によると、約20年前、受験に失敗した地元の高校卒業生がトンネルの上部から列車に飛び込み自殺をした。地蔵像は、悲嘆にくれる遺族を見かねた地元の婦人達が、自殺者の供養の意味もこめて、トンネルの眼前に建立した「見守り地蔵」だったである。
 同じ場所では過去に数度、自殺があった。地元では幽霊トンネルとも囁かれた場所。霊能者によると、トンネルのなかに「いる」そうだ。
 置石ならぬ「置き地蔵」の舞台となった場所は、まさに複数の自死が発生したポイントであり、住民は「いたずらにしては限度を超えている」「祟りがあるのでは?」「自殺者が浮かばれない」と、一様に怒りと驚きを隠せない模様である。
 大分県警大分中央署は列車往来危険容疑で捜査中だ。署内での正式名称は「線路内における置石(地蔵様)事案」。警察用語では「置石」だが、置石に分類することに躊躇があったのかもしれない。地蔵に「様」をつけるあたり、人情を感じる。


事件の背後に見え隠れする犯人像


 周辺では、石仏などに対するいたずらが頻発していた。
 現場付近は石仏の多い場所だ。大分市の観光案内版の脇にも石仏が配されているのだが、数年前には古国府トンネル付近の案内板の石仏が蹴り倒されていた。だが、住民たちを驚かせたのは、見守り地蔵から数百メートルも離れていない「岩屋寺石仏」に対するいたずらだった。岩屋寺石仏は平安初期の作といわれる磨崖仏(まがいぶつ)群で国指定の史跡。
 事件は昨年12月に発生した。岩屋寺石仏に設置された8躯の石仏と標識に、青色のスプレーペンキがべったりと塗られていたのだ。
 被害にあった石仏は、幸いにも磨崖仏ではなかった。付近の寺院が、境内から移設したものだった。
 付近の寺の住職らが作業をして、青色のペンキはどうにか落とすことに成功したが、騒動は続いた。今年1月には、近くの県立大分上野丘高校の庭のブロンズ像に金色のスプレーが、7月には、同じく付近の県立芸術短期大学の敷地に隣接する六地蔵にも、青のスプレーがかけられた。同じペンキだったという。
 元町の見守り地蔵に対するいたずらも、じつは今回が初めてではない。今年7月上旬、「消えていた」。ある日こつ然と、姿を消していたのだ。
 住民が探すと、線路脇の草むらのなかに倒されているのが、7月17日に発見された。地元の人々は地蔵像を元の場所に戻し、先ほどの寺の住職に供養してもらったのだが、25日には、何者かによってついに線路に置かれ、粉砕という結末を迎えたのだった。
 石仏等に対する執拗な手口を考えると、同一人物の犯行と推測される。地元では「少年か若い者の仕業だろう」という声が多い。
 大分の地元紙「大分合同新聞」も置地蔵事件に触れ、7月28日の朝刊コラムで若者のゲーム感覚での犯行や「祟り」をほのめかしている。
 しかし、である。
 散歩をしていた人たちの証言によると、芸術短大隣接の六地蔵は、犯行のあった日の午前7時、元町の見守り地蔵は同6時には無事な姿が目撃されている。六地蔵は8時前までにはペンキを塗られ、トンネルでは6時12分ごろには列車が衝突している。
 それぞれ、早朝のわずかな時間での犯行ということが分かる。一帯には田畑が多いとはいうものの、住宅街である。朝に散歩をする高齢者も多い。農作業の人たちもいる。
 とくに、見守り地蔵のあった場所は、国道10号線から良く見える場所であり、国道の「岩屋寺入口」信号からも遠くない場所。停車中の車内からは、はっきりと見えると思われる。
 自殺の「名所」なので(というよりも、近年は変態親父が出没するとかで)、夜は気味悪がって人通りが少ないものの、地蔵の脇を通る細道は、国道の抜け道になっていて、日中は人通りが、けっこうある。朝方は高齢者の散歩も多い。
 高校のブロンズ像の一件は、岩屋寺石仏の事件に刺激された若者によるいたずらかもしれない。高校の件は、夜に行なわれた可能性が高いという。上野丘高校では近年、卒業生を装った男が卒業生の家に電話をかけ、個人情報を聞き出すといった事件も発生しているが、これは別件のようだ。
 一方、六地蔵や見守り地蔵そして、そのほかの石仏の事件に共通して言えることは、犯行時刻が朝ということ。そんな時間に若者が何かをしていれば目立つだろう。
 また、散歩などの地元の人の流れを把握していなければ、犯行は不可能だ。そして、若者特有の「落書き」ではない。岩屋寺の石仏の顔を青で塗りたくった手口は、じつに粘着的だ。
 愉快犯にしては、犯行が粘着質すぎる。しかも、逆に言えばこの程度の「いたずら」で愉快になれるものだろうか。
 そして、ターゲットは明らかに「石像」だ。愉快犯の対象になるのだろうか。
 以上のことを総合すると、犯人は通行人に目撃されても怪しまれない人物、つまり地元の人間でかつ、ある程度信用された者ではないのだろうか。先に紹介した寺院とトラブルを起こしている、またはその寺院に対して嫌がらせをしたい理由のある中年の仕業かもしれない。
 実際、聞き込みを続けていると「事件の当日、犬を連れた中年男性が、線路に入ってしきりに何かを探していた」と語る婦人がいた。この男は、何を捜していたのだろうか。
 事件の朝、現場周辺では警察が地蔵の破片を拾うなどの現場検証を行った。その騒ぎが落ちついてからの時刻だ。何か、捜すものはあるのだろうか。ふいに胸をよぎった言葉は「犯人は現場に戻る」、それだった。


このいたずらの「罪」の重さ

 JR九州によると、同社では車輌前部のパーツ交換を行なった。損害額は約5万7000円。自然災害ではないので、犯人が捕まれば損害賠償を行なうことになるという。乗用車を壁にぶつけて、前部のバンパーを交換するより安い損害額だが、問題は刑事罰のほうだ。
 この地蔵様には持ち主らしい持ち主がいないので器物損壊罪が問われるかどうかは不明。一方、線路上に(石仏を含めて)置石をした場合、刑法の「往来を妨害する罪」第125条「往来危険」の罪に問われる。「鉄道もしくはその標識を損壊し、又はその他の方法により、汽車又は電車の往来の危険を生じさせた者は、2年以上の有期刑または20万円以下の罰金」。未遂であっても処罰対象になる。いわゆる未必の故意である。
 けが人が出た場合は「傷害罪」が適応され、10年以下の懲役。死人が出ると、罪はもっと重い。同126条「汽車転覆等及び同致死」の第2項目は「死刑または無期懲役」と規定する。
 上記は、人の世の裁きだ。だが、この世ならぬ領域の「罪」は、だれが裁くのだろうか。
 事件後、検証のために警察が石片を持っていったが、一定期間が過ぎたため、地元住民に返還された。その石片を受け取った地主は、「頭部は原型を留めていた」という理由で、もともと地蔵が立っていた台座に、頭部をじかに接着してしまった。これが、犯人の望んだ結末なのだろうか?
 取材するために大分へ行ったとき(8月8日)、現場にはこの「頭部だけの地蔵」が無残にも佇んでいた。その「地蔵」を見たとき、強烈にギョッとした。
 自分には霊感などはまったくないが、その場所に漂う怒りのような殺気を、たしかに感じた。
 首だけという異様な形相に、吐き気さえ催し、そして、この原稿を書いているいま、ついに吐いてしまった。
 犯人の動機はいまいちよく分からない。単なる変質者かもしれない。犯人のやったことは許す余地などまったくないが、この人の身の安全を、かえって心配してしまった。
 取材で得られた情報を総合すると、犯人は地元もしくは近辺の者だ。そして現場を再訪しているはずだ。首だけ地蔵と対峙し、どんな表情をしていたのだろうか。

(ミリオン出版「不思議ナックルズ」掲載)[写真]事件後、警察から戻された石片のうち、頭部を地元の人が、もともとの台座にじかに接着した。台座に首だけが載っているのは異様な光景だ

2008年4月17日木曜日

(墓81)日伯司牧協会の日本巡礼団


日伯司牧協会の日本巡礼団
長崎で中村神父の足跡たどる


【長崎発・太田宏人】日伯司牧協会(青木ファン代表=バチス勲・神父)では、ブラジル初のカトリック布教使として邦人に尽くし、「生ける聖者」とあがめられた中村ドミンゴス・長八神父を、尊者もしくはその上位の福者に列叙するようローマ法王庁に働きかけている。
 同協会ではその運動の一環として、中村神父の出身地である長崎県五島を目指す巡礼の旅を続けている。青木神父やブラスヴィア旅行社(聖市)の石井久順社長らをはじめとする巡礼団は、豊臣秀吉によって処刑された「日本二十六聖人」が歩かされた京都から長崎への道を中心にたどりながら、このほど長崎入りした。
 長崎では原爆投下に関するさまざまな施設を訪問。かつては「東洋一の大聖堂」と称えられたものの原爆で全壊した浦上天主堂(戦後再建)などで祈りをささげた。
 青木神父は「移住百周年を機に中村神父が列福されることには大変な意義があると思います」と熱く語った。
 中村神父は、隠れキリシタンの子孫。教皇庁からブラジルへの布教辞令を受け、一九二三年、五八歳で海を渡った。
 2008年4月8日「サンパウロ新聞」掲載
 (写真:長崎市永井隆記念館前で日伯司牧協会の巡礼団)