2007年9月3日月曜日

(墓7)ペルーで生きる(ある野球バカの物語)

●ペルーは危ない?
そういう話は、聞き飽きた


「ペルー」と聞いて連想するのは、インカ、クスコ、ナスカの地上絵。日系人初の大統領・フジモリを生んだ国、貧困、南米、サッカー、土(地の)人・・・。そんなところだろうか? ぼくたち日本人にとっては、極めて危険な国というイメージも定着しつつあるそうだ。
それってほとんど、外国人の持つコテコテの日本像「フジヤマ・ゲイシャ」に近いのかもしれない。このあいだペルーに行ったとき、首都のリマ市で幼稚園を経営している日本人で、数年来の知り合いの大森雅人に、
「ペルーはいま、日本人にとってかなりヤバイんだって? そういうニュースが日本で流れているんだけど」と水を向けたら、
「それは、観光で行こうとか行かないとかっていうレベルでの認識でしょ。そんなレベルで国とか人を判断したら、真実味はないよ」と切り捨てられた。
「ペルーにやることがある人は、何が起こったって、ここに来るって」
そりゃ、そうだ。
ペルーは、危ないでしょう?
ペルーに住んでいたり、住んでいたことのある人なら、多かれ少なかれ経験する「お約束」の質問だ。それに対し、危ない状態から逃げ出した者はペルーの危なさを切々と説明し、またある者は、危ない国で自分が生きていることの勇気なり優越性なりを延々と物語る。ただ、良識ある多くの人々は、苦々しく笑い、こう言うだろう。
「私、普通に住んでいるんですけど」と。

●野球ボランティアとして、
ペルーへ





大森雅人、41歳。二児の父で子煩悩。野球が好き。エロビデオも好きとか。ぼくの長女が生まれる前「父になるなら、これを読むべし」と、UFOが地球の危機を警告する! といった内容の本を渡した人物でもある。
その風貌は、雑誌『さぶ』に出てくる体育会系の兄貴をかなり丸くしたけれども、昔取ったキネヅカ的に運動選手の匂いも充分発散させているような――そんな感じ。
大森は、ペルーに18年住んでいる。約8万人といわれる日系人に親族がいるわけではない。84年、青年海外協力隊の野球指導員としてたまたま赴任したのがペルーとの出会いだった。思い入れなどはなかった。ただ、
「水が合った」
協力隊の任期は87年に切れたが、ボランティアの最中に知り合ったペルーの女性と、結婚を前提にした交際も始めていた。野球に未練もあった。残りたかった。そこで、日本の少年軟式野球連盟国際交流協会にかけあい、さらに数年間、野球ボランティアとして派遣されることになった。
89年には前述の女性、パトリシア・ガレーノと結婚。パトリシアはソフトボールのナショナルチームの選手で、同じグランドを使っていたのが馴れ初め。また、彼女は大学の幼児教育科で勉強していて、ペルーに赴任する前には実際に日本の高校で体育を教えていた大森と、なにかと会話が盛り上がった。
なお、野球ボランティアといってもペルーの野球はそれほど盛んではない。ラテンの国である。国民スポーツはフットボール(サッカー)だ。野球は、もともとはアメリカ人が伝えたとされるが、本格的になったのは、日本人が移民を始めた1899(明治32)年以降。そして現在まで、親から子へ、子から孫へと受け継がれてきた。
日本人とその子孫である日系人が野球を好んだのは、一世たちが野球に親しんでいただけではなく、暮らしがきつかったからだろう。だから、娯楽に熱狂した。スポーツは、日ごろの憂さ晴らしにちょうど良かった。日本人チームが林立し、レベルは高かったという。
現在のペルーの野球人口は老若あわせて約1500人。うち、日系人は6割くらい。
ボランティア活動を再開した大森は前回同様、子どもを中心に野球を指導し、ペルー全国を飛び回った。ところが、疑問もあった。
いくらボランティアを続けても、任期が切れたら、そこで終わり。後任者への引継ぎもない。こんなんで、援助といえるのか・・・。
91年7月、大森に転機が訪れる。
リマ県北部の野菜研究研修センター(ワラル市)で、JICA(国際協力事業団)が派遣していた日本人農業技師3人が虐殺される。反政府テロ組織「センデロ・ルミノソ」の犯行だった。そして、ペルー全体で100人近くいた日本のボランティアたちが、
「まるでクモの子を散らすように、それこそ1週間くらいで全員帰国した。ワラルの事件は悲しかったよ。でも、同じ日本人として、援助の即刻中止は、情けなかった。情けない人材。情けない国。『何のための援助なんだ』と憤りを感じた」
治安が悪いのは、途上国につきものの付帯条件ともいえる。それを覚悟で、俺たちは活動してきたんじゃないのか・・・。大森が赴任したころは、全国的に無差別テロが頻発していた。企業家の誘拐・殺害も横行していた。テロの時代の犠牲者は約2万人とされている。だが、日本人だけが狙われたわけではない。
日本政府の対外援助には、批判も多い。大森は協力隊員だっただけに、いろいろなことを痛感してきた。まず、人間性の問題。日本に帰ってからの生活の保障を優先させたりする「せこいボランティア」。
また、前任者と差別化するために、それまでとはまったく違うことをやって、
「赴任先に爪痕を残したりする」
こんなボランティアたちだからこそ、受け入れ先の重荷になってしまうこともある。
「どこそこの国であれこれ頑張ったんだ! という自己満足なんですよね、結局。実際には、たった数年の任期で貢献できることなんて、それほどないのに」
だから、援助対象国に変化が現れた。
「ボランティアという人材に、はじめから期待しない。それより、人間と一緒についてくる機材や金が目的になってくる。指導員が出汁にされちゃっているんだよね」
金満日本の面目躍如である。
なお、ペルーへの人的支援は、現在もストップしたままになっている。
ワラルの事件と前後して今度は直接、大森に思いもかけないことが起こった。日本のバブル崩壊の余波が襲い掛かってきたのだ。バブルなんて、ペルーにいる大森には関係ないと思っていた。が、景気が後退し、大森のスポンサーだった少年軟式野球連盟国際交流協会に企業の寄付が集まらなくなってしまう。ボランティア活動は、91年に打ち切られた。
このとき、大森はかなり考えた。自分の生涯というものについて。定住すべきか、帰るべきか・・・。そのころ、長女は産まれたばかりだった。それなのに、収入はゼロ。
幸い、妻のパトリシアが小規模な幼稚園を始めていた(ペルーでは、普通の住宅でも学校を始められる)ので、生活を安定させるため幼稚園に参加し、規模を広げようと決心。プールや空手、陶芸など、ペルーの幼稚園には珍しい情操教育を取り入れてゆく。
なんとペルーにも「お受験」があり、名門校へ何人合格させるかで各幼稚園はしのぎをけずるという。情操教育などに割く時間は、普通は考えない。ところが大森は、あえて教育本来の部分にスポットを当て、受験勉強への偏重を避けた。大森が心配していた保護者の反応も徐々に好転、次第に賛同に変わった。児童数も増えた。成功である。
生きるのが精一杯の日々だった。だが大森の頭にはいつも、野球のことがあった。
しかし、金はない。
ワラル事件でのボランティア撤退や、政府系のボランティアそのものに対するわだかまりもくすぶっていた。そこで行き着いたのが、民間ボランティア構想だった。

●「反日感情の国」で、
民間ボランティアを続行


「民間となると、当然、規模は小さくなってしまう。でも、どうにかなると思った」
そこで、日本に一時帰国したさいに、高校野球の有名な指導者で、『甲子園の心を求めて』(東宣出版)などのベストセラーも多い佐藤道輔に相談を持ちかけた。大森も、佐藤の本の愛読者だった。大森の話を聞いた佐藤は、「民間で始めよう!」と即決。
佐藤の対応はすばやく、私財を投じて「ペルー野球を支援する会」と、「佐藤野球基金」を立ち上げ、バットやグローブの寄付を募った。94年には初代ボランティアコーチとして元の教え子を派遣した。集めた道具類1コンテナも、ペルーへ送った。
大森は、現地コーディネーターとして、また、派遣されてくるボランティア(無給)の世話役として、幼稚園の仕事のかたわら、フルに活躍する。
佐藤の奔走も続いた。初代以降のボランティアの生活費をすべて負担し、それとは別口で、毎年欠かさずペルーの野球界に対する資金援助を行ってきた。
単発の援助は、誰でもできる。イベントだ。気分も高揚する。だがその継続は、難しい。人間だったら私心も生まれるし、名声への甘い誘惑に目もくらむ。ところが彼らは、もくもくと仕事を続け、成果を積み上げていった。
テロは、92年を境に終息に向かうが、民間ボランティアを始めた当時は、まだくすぶりを見せていた。地方ではとても安全とはいえなかった。さらに、96年には反政府テロ組織による日本大使公邸人質占拠事件が発生し(終結は97年)、98年にはアマゾン川で筏下りをしていた早稲田大学の二人の学生が、陸軍兵士たちになぶり殺しにされている。
最近では、2000年11月のフジモリ罷免後、正義の味方を演出する反フジモリの政治家たちによって「日本人は出て行け!」などというPRが展開された。JICAなどからみれば「絶対にボランティアを派遣したくない状況」だろう。ところが民間の野球ボランティアは継続され、現在までの7年間で5人の青年コーチがペルーの大地で働いた。
「佐藤先生が送り込んだやつらが凄いのは、みんなが、つながっていること」と、大森。
つながっているとは、どういうことか。
「ボランティアを終えて、日本に帰ってからも、ペルーの野球を支援している。ペルーにいるときよりも、もっと頑張っているんじゃないの?」というくらいに。
たとえば、ペルーでボランティアを続ける後任のバックアップ。資金作りのためのチャリティバザーの運営。遠征で訪日するペルーの少年野球チームのお世話。こういったことを、OB全員が一丸になってやっている。ペルーを訪れることもたびたび。それも旅行が目的ではなく、野球のために。すべて自費だ。
大森によると、協力隊のOBが赴任国を自費で訪れ、自分が関わっていた分野の仕事に尽くすケースは、ほとんどないという。
ただ、青年海外協力隊の隊員と違って、試験をクリアーしてきた人材ではないから、
「ある意味で、技術は低い」
言葉もわからない。何から何まで周囲のお世話になってしまう。だからこそ教えてやろうなんて姿勢は「とれない」。お世話になる代わりにせめて野球で恩返しさせていただきます、みたいなスタンス。佐藤が送り出すボランティア・コーチを結びつける靭帯は、ただひたむきに野球を愛し、子どもを教えるのが好きな人。ただ、それだけだ。
「強者が弱者に与えてやるような、かつてのボランティアとはちがう。ある意味で、援助の進化形と言えるかもしれない」
民間ボランティアは、今年で終わる。
「ひとまず、区切りをつける」
今後は、ペルーの少年を日本へ派遣し、日本の野球を体験させる方向へシフトしていく。日本側で野球留学生の面倒を見るのは、もちろんボランティアOBたち。ホームスティも、OBの家で行う。パイプ役が、大森だ。
国際援助は、国と国の外交(メンツ)、人と人の欲望(ホンネ)が絡むだけに、複雑な部分もある。成果もなかなか見えない。でも、やる価値はある。だからこそ、「反日感情の激しい」などと報道されちゃってる国で、人知れずそれを実践している男たちがいる。
「もし、協力隊のOBが(自分のように)現地に残ってね、民間もしくは半官半民でもいい、日本からやって来るボランティアを継続して支えることができたら、日本の援助はもっと違った展開になると思う」
それは、確信に近い。
フジモリ失脚で世相が騒がしくなり、駐在員を引き上げさせた日本の企業 (ペルー三井物産)もあるくらいだが、大森は排日感情や人種差別を感じないのだろうか?
「白人文化の国だから、深いところではあるかもしれないけど、バスに乗れないとか、そういった差別なんてまったくない」という。
外国に住むと、誰もが経験する理解不能なあつれき。それは単なる文化の違いが原因なのだが、差別があると思っている人は、すべからく差別と決め付けてしまう。「気の持ちようなんだけどね」と、大森はいう。
「だいたいそういう人って、ペルーに定着する気がないんじゃないの」
東洋系に対する侮蔑語は、「チーノ」という。中国人という意味で、奴隷として連れて来られた彼らへの侮辱だ(ペルー人には中国人も日本人も韓国人も見分けがつかない)。
庶民的なレベルでは、見ず知らずの人への呼びかけで、デブやヤセ男、金髪、黒人ちゃんなどと身体表現をダイレクトに用いるので、「チーノ」も、侮蔑語とは言い難い。大森は、気にならない。愛称くらいに思う。
「チーノなんて言われて侮辱されたと思うのは、18年住んでたった1回だけ」
ただし、この点では大森の認識は甘いかもしれない。なぜなら、幼稚園と自宅のあるサン・イシドロ区は一等地で、住人の教養のレベルも高いほうだが、ぼくが通勤していた貧民街では、侮蔑語としての「チーノ」はもっと頻繁に浴びせられるし、個人的な体験では、腐った野菜や火の付いた爆竹(中国製の巨大なやつ)の束を投げつけられたこともある。
ただ、日系人が移り住んでてから現在までの約100年間に受け、克服した差別に比べれば、じつはそんなに大したことではない。

●マイノリティーだからこそ
強じんな、日系人


1899年4月3日。約1ヶ月の航海で太平洋を渡った一隻の日本船が、ペルーのカヤオ港に到着した。船名は「佐倉丸」。最初の日本人移民790人を運んだ、いわゆる第一航海である。佐倉丸以降、1923(大正12)年までの移民は、ほとんどが大規模農園の労働力として供給されたが、その待遇は奴隷と大差のない状態だったという。
耕地内の移民小屋には蛆が這い、水といえば下水のような用水路だけ。そして、重労働と風土病がたたって死亡者が続出。ところが、生産性の低下を嫌う農園主は一人づつの葬式を認めない。移民たちは仕方なく、2~3人死ぬまで小屋のなかで死体を安置し、数がたまってから葬儀を出すありさまだった。
一攫千金、故郷に錦を飾る大志を抱いた日本人たち。だが、現実は過酷すぎた。移民の草分け時代、農園での4年間の労働契約が終わるまで生き残れたのは、全体のわずか数十パーセントだった。乳幼児死亡率も高かった。リマ県南部のカニエテ町には「慈恩寺」という日系人の寺があるが、保管されている古い位牌の多くは、乳幼児のものである。
当然のように、多くの移民が農地から逃亡する。行く先はリマ市。一文なしの移民たちは、露天商や庭師、ボーイから身を起こし、散髪、洗濯、雑貨へと業種を広げ、成功者も出始める。そうすると、店員が欲しい。ところが、ペルー人は信用ならないし、言葉もわからない。やはり気心の知れた人間がいい。こうして、移民の同郷から親類や知人が大量に呼び寄せられた。医者も来る。助産婦も来る。子ども(日系ペルー人)も続々と生まれる。学校も建てられ、1930年代のリマ市では約50人にひとりが日本人という状態まで、日本人コミュニティーは膨れ上がっていた。
しかもみな、いつかは日本へ帰る心積もりだ。ペルーに骨を埋めようなどとは思っていない。ペルー生まれの子どもたちでさえも、自分の国は日本だと思っていた。
「あいつらだけで、儲けてやがる」
ペルー人が日本人に敵意を抱くのに、いささかのためらいもなかったろう。ペルー人にしてみれば、ついこのあいだまで奴隷として消費してきた東洋人風情、なのである。
そして1940(昭和15)年、ついに排日暴動が爆発する。死人こそ出なかったが、600軒以上の邦人および日系人商店が根こそぎ掠奪された。再起不能に陥り、救援船で日本へ引き上げた家族は、54世帯にのぼった。
1941(昭和16)年に日米が開戦すると、ペルーは日本人の資産をすべて凍結。日本人コミュニティーの知識階級や有力者をアメリカ合衆国へと強制連行した。この愚行は、合衆国の指示だったとされる。アメリカでは日系人の戦時下収容が知られているが、そのなかに1800人近いペルーの在留邦人がいたことは、あまり知られていない。
さらに、第二次世界大戦の終結後も当時のペルー政権は日本に滞在する日系ペルー人の帰国すら認めなかった。彼らは、国籍上は完全にペルー人なのに、人権は無視された。
戦後もしばらく、日系人選手というだけで国の代表からはずされたりと、さまざまな差別が繰り返された。だが、ペルーの教育を受けた日系人の若い世代は、一世や古い二世とは違い、積極的にペルーへの同化を模索する。彼らは粘り強く、そしてしたたかに頭角をあらわし、おもに医師や技師といった専門職で高い評価を得ていく。その武器は、先祖から受け継いだ「勤勉で正直」という日本人的な素養だった。そしてやがて、日系ペルー人に対する信用は揺るぎのないものになった。
そしていつしか、差別は軽減した。
一世紀の苦難が、実を結んだのだ。
ペルーでは多くの人が「医者や弁護士ならニセイ(日系人の別称)」という。これはいまや、常識であるし、フジモリ失脚ののちも、その評価は変わっていない。
自らの力で、名実ともに市民権を勝ち取った日系人。ペルー人としての自信も強まり、もはや、人種差別におびえるかつてのマイノリティーではない。差別があれば、それに反論もする。差別を受けても、受け流せる。
人種差別があるなしは、問題にはならない。
日系人は言う。
「私は、ペルー人。差別があろうとなかろうと、私はここで生きている」と。
大森も、このスタンスに近い。というより、定住の過程で、日系人の心理に似てきたのかもしれない。
まあ、なかには「このままいたら危ない」などと、みょうに心配性な日系人もいて、出稼ぎの名を借りて祖国から逃出すケースも、あることはある。それはそれで、日系人もしくは日本人のアイデンティティーを考えるうえで、非常に興味深いことかもしれない。
ただ、そういう日系人に限って、ペルー社会にコミットしていないケースが多い。

●借金かぶっても、
「自分を生かせる国だから」


大森にとって、ペルーは初めて体験する外国だった。住んでみると、常識が覆されたという。受け入れられなかったり、通用しなかったり、いろいろな壁にもぶつかった。
「自分を、考え直させてもらった」
外国に住むと、そんなチャンスが与えられるようだ。これだけ海外旅行が自由な時代だからこそ、「そういうことが問われているんじゃないか」と、大森は考える。
「そりゃ、『危ない』とか言われていたら、観光客はこないよ。でも、残念だよね。観光のレベルで国とか人を判断するのは」
情報は、お手軽に入ってくる。でも、その情報は何のためのなのか? 表面的な情報で、ニュースが流れてもいいのだろうか? 国家の名のもとでの援助が左右されていいのだろうか? その国への関わり方が変われば、見えてくる情報も変わる。当然、国なり国民なりの評価も違うものになってくるというのに。
ペルーが危ないとか安全とかを問題にする前に、ペルーで「何をやるか」が重要なこと。大森にとってのそれは、自分が生かされる仕事=幼稚園なのだ。そして、野球。
大森は、大きな負債を抱えている。
「最近、連帯保証人をやってた会社が潰れちゃって。1億円の半分くらいの金額」
ちなみに、コカコーラの500ミリリットル入りペットボトルが日本円で約60円、牛のひき肉が1キロ買っても240円くらい。リマ市のそこそこの住宅街(東京なら杉並、世田谷)の3LDKの部屋が月に約3万円だから、大森の苦悩も想像するにあまりある。
で、この借金を前にして、一度は日本への帰国も考えたらしい。高級住宅街に位置する幼稚園と、住宅としても使える大きな事務所を売れば、返済にも目処はつく。が、経済に明るさの戻らないペルーでは、いっこうに売れそうにない。そうこうするうちに、幼稚園のプールを利用した胎教教室などのサマースクールがはじまり(ペルーの夏は、日本の冬のころ)、幼稚園の入園時期も来て、「悪循環だよね。しかたなくというか、おかげさまで、今年も幼稚園をやってる」ことに。
状況に応じて、器用に生き様を変えられる人を、
「うらやましいと思うわけじゃないけど、俺って不器用・・・」と気弱に思ってしまうこともある。そろばんなしの人間でもある。
そのせいか、人望が厚い。大森のまわりには、彼を慕って多くの人が自然に集まってくる。
このほどペンションを始めた。幼稚園の事務所棟の空き部屋を使った苦肉の策だが、古き良き時代のペルーの建築に、ところどころ和風の装飾品なども混ざって、なかなか味のある風情をかもし出している旅宿に仕上がった。
だが、これはあくまで副業と考えている。
「幼稚園を閉めて、食いつなぐ目的だけでペルーで働くなら、日本に帰ると思う」
何をやるかにこだわって停住する大森にとって、それは当然の判断かもしれない。そもそも、ただ稼ぐだけなら日本に住むほうが割に合うのだ。そして、実際問題として「自分を生かせる」仕事のオプションが、ほかにあるわけではない。
だから、ペルーに残る。ペルーで生きる。
意外にも大森は、何が何でもペルーにしがみつきたいわけではない。でもまあ、そのへんの脱力かげんがなかったら、生きるのはちょっと疲れそうだ。 〔文中敬称略〕


『ダークサイドJAPAN』(ミリオン出版)2001年8月号掲載

合掌。
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