2007年9月3日月曜日

(墓33)Nさんの話

 Nさん(80代後半)は自分の写真を見つめて黙っている。そして突然、「おれもこんなに年寄りになったかぁ!」といって大笑いをはじめた。近いうちに、孫娘がカナダ旅行をプレゼントする。そのため、パスポート用の写真を写したのだ。
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  1913年、今の沖縄市字古謝(こざ)に生まれた。沖縄の旧制那覇二中の3年在学中に、ペルーで働く父が帰郷、Nさんは父親とともにペルーへ渡った。
  「恋愛問題とか色々ありましたが、戦争が嫌だった」。
  船の名は「墨洋丸」。1931年のことだった。
  この年には満州事変が勃発している。日本が対中侵略を本格化した頃、ペルーでは日本人の移民が開始されて32年。農園労働者から身を起こした移民たちが都市部に集まり、商売や理髪業にいそしんだ。多くが成功を収め、日本人のリマ首都圏での活躍が華と輝いていた。なお、1929年には秘露日々新聞、アンデス時報、日秘新報が合併し、リマ日報が創刊される。同年、秘露時報も新創刊となった。ペルーの現況もさることながら、「大陸に躍進する」祖国事情への渇望もあいまって、ペルーの日本人社会では邦字紙が林立した。

  ところが1930年に、日本人移民の最大の擁護者だったレギア大統領がサンチェス・セロ中佐の軍事クーデターで失脚。その混乱に乗じてリマやカヤオの邦人商店が掠奪されている。排日的空気は、実は着着と醸造されていたさなか、Nさんはカヤオの港に降り立った。ときに17歳。
  「兄が働いていた」という印刷所で長年働く。
  「麦を煮て作る糊が臭かった。そりゃもう、臭かったですよ」と顔をしかめる。
  「ムーチョ・トラバホ(重労働)。カレンダーとかクワデルノ(ノート)をたくさん作ったものです」。

  それから独立。
  「メルカード・セントラル(中央市場)で野菜を買い込んで、リヤカーで引っ張って店へ運びました。毎日、休みなしです。体は、頑丈でした」。中学では陸上の選手だった。

  1940年の排日大暴動では、自警団に加わる。時習寮(現サンタ・ベアトリス幼稚園)の保護者会のことは、古き良き思い出だ。歴史を見てきた。
  その後、「店をやめて、新聞社に入りました」。

  1963年、50歳の再出発だった。以来40年近く勤続している。
  「昔の経験を活かして、植字工ですよ。1ページ組むのに、そりゃ、2~3時間はかかりました。なかなか大変な仕事です」。
  これまで「病気らしい病気をしたことがない」という。
  毎日、お湯に溶かして飲む粉末の牛乳を2袋とパンを食べるだけ。嗜好品は一切遠ざけた。
  「金がないから始めた習慣ですが、実際、体にもいいんですよ」と胸を張る。90歳近い高齢者とは思えない達者ぶりだ。
  ……と書くと、まるで好々爺(こうこうや)のような人物に思われるかもしれないが、Nさんが丸くなったのは、知人らによると「ここ数年」という。手におえない頑固オヤジだった。友人も、もともと少なかったうえ、今は「みんな死んでしまったです」。
  男尊女卑を主張し、職場の同僚の女性にも手を挙げそうになったこともあるとか。

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  その新聞社にも時代の波は訪れる。1990年、日本の篤志家がワープロを寄贈した。ワープロ印字した紙を切って貼りつけ、その全体を一枚の写真に撮って、写真製版できる機械とオフセット印刷機もセットで贈った。
  そして、活字はなくなった。
  Nさんは活字を組むのを止め、切り貼りの作業をするようになった。当時、67歳。この年齢で新しいことを覚えた。
  「誰も何も教えてくれなかった。組み方も、貼り方もです。知っている人はいたのかもしれませんがね、教えてもらえなかった」。Nさんは回想する。

  その5年前に妻を亡くしている。子どもたちは、「皆出ていった」というが、はたから見ていると、近寄らせないようなところがある。それからは、「一人暮らし。気軽でいいんです」。
  ただし、寄る年波にはかなわない。耳が遠くなり、仕事での指示が聞こえない。目もかすむ。手も、以前のように緻密な作業はできなくなっていた。

  90年代の後半、新聞社は転換期に来ていた。
  寄贈されたワープロの寿命が尽きようとしていた。それは、一つの時代の終わりを告げていたかのようだった。誰もが予想しなかったグローバル化という波が、このミニコミ紙にも襲い掛かろうとしていたのだ。

  また、NHKの衛星放送が始まった。新聞に載る日本発の日本のニュースの、価値はなくなったに等しいといわれるようになった(それまでは、1ヶ月遅れの記事を使うことが作り手・受け手ともに疑問に思われなかった)。しかも、日本の事情が掲載された日本語新聞をありがたがる世代はほとんどいなくなった。日本語が分かる人々も少ない。いても、戦後移民や「最近来た人たち」のように読者が多様化し、興味の対象が広がった。同時に、ペルー国内でもコンピュータが普及した。印刷媒体の質が急激に上がり、いつまでも旧態依然の内容と体裁のままでは、いくら「日系社会の共有財産」として出発した新聞といえども、許される範囲を超えて来ていた。

  これらの変化が、急速に起った。そのため、「今までの新聞でいい」というグループが、コンピュータを駆使する「新世代」と社内で激しく対立した。
  Nさんも、「新聞を新しくする必要はない」という一人だった。ところが、仕事を増やしたくない、もしくは自分の居場所をいつまでも誇示したい理由から、変革を嫌った人たちとは一線を画していた。
  彼は、切り貼りの係を下ろされたら、「人生の終わり」とまで考えていたからだ。

  「ヨ(私)は、一人暮らし。ここを辞めさせられたら、他にやることがない。会社は、ミ、ヴィダ(私の人生)」と公言していた。だから、“自分の居場所のないような、合理化された新しいシステム(コンピュータによるすべて)”への改革を推し進めようとする動きには、猛烈に反対した。

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  しかし、体は動かない。でも、他の仕事は絶対にしたくない。
  編集室での新聞の整理を勧められた時も、
  「ノ、メグスタ(嫌だよ)。ヨ(わたし)の仕事じゃないから」。

  その会社には、それまで「(日本人の)職員は絶対に辞めさせない」という「決まり」があった。これは、ワープロや印刷機を寄贈した篤志家との約束だった。「日系は年輩を大切にする」、という世間体もあったろう。
  Nさんは、その約束に保護された。しかしその反面、限界以上の仕事を自分に課すことにもなっていた。辛そうだった。

  新聞社の奥まった一室にある貼りつけ台から離れようとしなかったNさん。貼りつけていたのは記事ではなく、彼の人生だったのかもしれない。
  ある日、Nさんはついに大きな間違いをした。それは、致命的なミスだった。会社は、決断を下した…。

***

  いまでは週に1回、Nさんは日系高齢者の娯楽施設である「神内先駆者センター」に通っている。それ以外の日には、編集室で古い新聞から面白い記事を探す。
  最近、30年も前の旅行記の連載が再録されたが、それを探したのはNさんだ。
  しかも後日談がある。旅行記を書いた人が感動した。その人は、日本大使大使公邸人質事件で最後まで人質にされていた人だった。そして、人質事件の体験談を寄稿することになった。紙面に活気が出たのである。これは、Nさんの功績だ。

  Nさんは、表情が穏やかになった。(日系人の高齢者のディケア施設)神内先駆者センターで、知らない人とも会話をする。遠ざかっていた家族との絆も、ぼちぼち回復してきたようだ。

  そのころ、例の孫娘から会社にFAXが届いた。
「おじいちゃんは、明るくなりました。私たちと食事をしてくれるようになりました。本当にありがとうございます」

  Nさんは、貼りつけ台から人生を引っぱがした。齢(よわい)87。きょうも働く。
「働かないと、気持ち悪くて、スエルド(給料)、頂けませんよ。働けるなんて、本当に幸せです」
  “働く福祉”というのも、あるようだ。

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  孫娘は、Nさんと彼の妹(ハワイ在住)を、カナダで引き合わそうと考えている。妹は、Nさんが故郷を発ってから生まれたため、これまで一度も会っていない。
Nさんの出無精にも、変化が表われたようだ。 [文責・太田宏人]
「ペルー新報」2000年3月25日号掲載(そこに残る日系の影*最終回)

追記:2001年にペルー新報に電話をかけたとき、Nさんは退社していた。
2007年現在、リマ市郊外の日系高齢者のための養老院で暮らしている。
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