2007年9月3日月曜日

(墓13)墓石に残るプニサス植民地の跡

一八九九(明治三二)年に始まるペルーへの日本人“移民”は、耕地と呼ばれた既存のプランテーションへの出稼ぎだった。が、その待遇は奴隷に近く、高給を保証した労働契約もまったく守られなかった。しかも耕地は伝染病の汚染地域。第一回の移民船でペルーに渡った七百九十人のうち、翌年までに、百二十四人が死亡した。

そこで、多数の逃亡移民が生まれた。彼らは都市に逃げ、そこで小規模商業を興した。成功者は同郷から縁故者を呼び寄せて従業員とした。
一九二〇年代以降、ペルーでは都市型の商業移民が主流になった。
そこでペルーでは、移民が原野を開拓するようなことは、あまりなかった。
その日系ペルー人の歴史のなかで異彩を放つのが、日本人が原生林を開墾してコーヒーを栽培した「プニサス植民地」である。ペルーの中央森林地帯に広がるチャンチャマーヨ谷に位置するプニサスへの殖民事業は、一九三〇年に始まった(入植は三一年)。ペルーで日本人が組織的に森林開拓を行った数少ない事例というだけではなく、ペルーにおける日系移民史の岐路ともいえる、特異な出来事だった。
(注:日本の外交史料やプニサス出身の日本人の戸籍などには「殖民地」の記載があるが、現地で使われた固有名詞は「植民地」)
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耕地から首都圏へ日本人が殺到した一九一〇年代以降、とくに二〇年代はペルー経済の絶頂期。好況を背景に、日本人の商業も拡大した。そのため、耕地からはさらに移民が流れ込んだ。海外雄飛の夢に燃えた呼び寄せ移民も、続々と渡航していた。
先輩成功者の商店を橋頭堡として、彼らもまた、都市に定着していった。
ところが、排他的な日本人は、ペルー社会から次第に目の敵にされていく。
三〇年の調査では、リマ市の総人口四〇万人のうち、日本人は八〇〇〇人以上。約五〇人にひとりが日本人だった。そして、三〇年に発生したクーデターでは、騒ぎに便乗したグループによって、リマおよびカヤオ市の日系商店二〇数軒が、掠奪された。
事態は緊迫した。

「邦人集中の弊害」をなくすという帝国公使館などの立案で、日本人の「地方分散」が具体化する。同年、さっそく日本の国庫金と在留邦人の出資金を資本とする拓殖組合が設立され、プニサス川流域一帯の山地に合計一五〇〇ヘクタールの森林が購入され、「プニサス植民地」と命名された。
三一年七月には、第一回入植者五世帯と測量士などが出発した。
彼らは原生林を踏み分けて家を建て、開墾を行い、コーヒーを植え付けた。尋常の苦労ではなかったという。
第一回入植者のうち、唯一の妻帯者だった室屋誠治(鹿児島県出身)の長女で、現在はリマに住むテルコ=ルイサ・ムロヤ=デ=グスマン(室屋晃子/六七)さんは、三四年のプニサス生まれ。
二人の兄が早世している。医療が充分ではなかった。
「私たちは、子どものときからとても働かされた。忙しい時には、カンパ族を雇いました」
カンパ族は、いわゆるインカ系の人々より古くからプニサス付近の森に住む。太古よりの先住民だ。日本人が入植した当時は貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる原始的な衣服を着ていた。正直で一徹者が多く、日本人気質にも似ていたという。
第一陣の生活がかなり安定した三二年には、後続の第二陣十五世帯、さらにその後も数家族が入山した。


三四年には、「プニサス日本人小學校」も開校した。この学校は、のちに帝国文部省の在外指定校だった「里馬(リマ)日本人小學校」の分校となった。日本から派遣された教師が教鞭をとり、両陛下のご真影を奉戴した正規の「日本の学校」だったのである。
唱歌「故郷」を聞くたび、「フルサトを思い出して涙が出る」というリマ在住の土井襄爾さん(七二)は広島出身。乳児のころ、一家がプニサスに入植した(第二陣以降の入植)。
土井さんは、いくつもの唱歌をプニサスの学校で習い覚えた。「私のフルサトはチャンチャマーヨ」と語る。ハゲ山と沙漠に囲まれ、冬(六~九月)には湿気九十%以上で薄日さえ差さない不健康なリマと異なり、チャンチャマーヨの気候は湿潤。樹々が繁り、水が豊かで、山々と蒼い空が広がる。日本の山河にも似ている。唱歌に歌われる情景と違和感がない。

一口にプニサスといっても、そこに日本人村があったわけではない。プニサスというヤマに、日本人が散在していた、というイメージに近い。その中心といえたのが、ヤマの中腹の頂(標高一〇〇〇m)にあった学校と、その直下にあった拓殖組合の事務所棟だった。
ただ、プニサスの“入山口”であるプエンテ・カペロ(標高八〇〇m)から直線距離で三キロのサン・ルイス村や、同じく三十キロのラ・メルセー町(現在は市)への買出しやコーヒーの出荷は共同で行った。
リマからは醤油や味噌などの物資も運び込まれた。トラックはプエンテ・カペロまでで、あとはロバや人力だった。

プニサス川は、プエンテ・カペロでパウカルタンボ川に注ぐ。この水系には淡水魚が豊富で、一世たちは刺身で食べたという。
コーヒーの収穫は年々好転し、ラ・メルセーの仲買人が折り紙をつけるほどの品質になった。

ところが、一九四一(昭和一六)年に日米開戦。翌年、ペルーは日本に対して国交断絶を通達し、国内の日本人に対する弾圧を強化する。首都から遠く離れたプニサスも例外ではなく、政府は無条件でプニサスでの一切の権利を没収する。学校も永久に閉鎖された。血と汗と文字通りの人命を代償に手に入れた開拓地の、あっけない「最期」だった。

その前年、リマではついに排日大暴動が勃発していた。プニサス植民地による「地方分散」は、反日感情の緩和には効果がなかったのだ。
戦時中も、プニサスは存在した。だが、「収穫の五十%を政府に支払うなら住んでも良い」という過酷な条件が突きつけられた。
「戦後、プニサスの住民はペルー政府から金で土地を買い戻した。けれど、日本人は次第にヤマを降りた。上級学校が/ネかったからね」(土井さん)。

土井さんは一六歳のとき、プニサスからほど近い地所を入手して独立。山林を開墾し、オレンジなどを植えた。農園は順調に発展し、推されてラ・メルセーの議員に。「チャンチャマーヨに骨を埋める」決意で、子どもたちに日本国籍を取らせなかった。のちに市長代理まで昇り、七四年にはペルー政府から騎士の勲章を受けた。だが、八〇年代末にはテロが激化し、身の危険を感じて九一年にリマへ転居した。
一方、室屋一家は一九四六年に首都へ移転。洗濯店を営む。テルコさんによると、「父は日本へ帰りたかった。プニサスでは成功したけれど、当時は、ずっと日本へ送金していたし、戦争で蓄えがなくなり、『これでは、みっともない。故郷に錦を飾れない』といって、帰国を断念しました」。

室屋誠治は一九五九年、リマで六十年の生涯を終えている。
現在、プニサスに日本人とその子孫は住んでいない。
残存する日本人学校や拓殖組合の事務所の建物には、新しくやってきたペルーの農民が住み着き、往時を知る者は、ほぼいない。ただ、日本人墓地に残るいくつかの墓のわずかに読める漢字や人名が、ここに日本人の生活がたしかに存在したことを物語るのみである。(一部敬称略)




[写真説明]1930年代後半の「プニサス日本人小學校」。
おおた・ひろひと
「ペルー新報」退社後、フリーライター。

『季刊 海外日系人』第50号(2002年3月)掲載
合掌。
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