2007年12月22日土曜日

(墓80)神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん


神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん
ライヴハウスには言霊が満ちてゐた
太田宏人・記


 彼女が唄ひ出すと、その場の空気が一変した。低音と高音を駆使する伸びやかな唄声に、聴衆は瞬時に魅了されてしまったやうだ。
 声質が良く、歌唱の技巧に優れただけの歌手ならいくらでもゐる。だが、圧倒的な存在感、魂を揺さ振るメロディーと歌詞、ときに明るくときに暗く、聴く者の存在を抱き止めるやうな唄ひ手は珍しい。歌唱の姿が祈るがごとき印象を与へる歌手は稀有だ。
 「言霊に祝福された唄ひ手」
 これが、涼恵さんのステージを拝見した時の第一印象であった。彼女のライヴは言霊のシャワーであった。
  ◎   ◎
 十一月二十五日(日)、四谷天窓.comfort(東京都新宿区高田馬場)で行はれたスタヂオ言霊の特別公演「時代(とき)の風」を観た。脚本・構成は松田光輝さん。歌唱は神戸市の小野八幡神社権禰宜でもある涼恵さん。すべての曲が彼女の作詞作曲だった。
 菊池智子さんのピアノ、松田さんの一人芝居(朗読)と涼恵さんの唄が絡み合ひながら、ストーリーが進行した。
 以下、涼恵さんの唄について書かう。彼女の音楽世界は豊かな二律背反を奏でる。たとへるならば神と人、自然と人為、和魂と荒魂、優しさと厳しさ、光と闇。これらが同居し、混沌を極めるのだが、時として闇の側面が勝るやうだ。これは彼女の内なる闇なのかもしれない。だがその闇のなかに、希望や救済、人の世の弥栄への祈りを感じたのは筆者だけではあるまい。
【この世には良いことも悪いこともたくさんある。幸運に見放されてゐるやうな時もあるだらう。だが、生きてきたこと、生きてゐること、生きてゆくことは、当たり前のやうに素晴らしい】
 彼女の闇は、我々にエールを送る温かい闇だった。
  ◎  ◎
 芝居と歌唱、ピアノの生演奏といったそれぞれのパーツの練度は悪くはなかったと思ふ。ただ、演出として狙ったのか、各者がそれぞれの情熱と才能を無計画にぶつけ合った結果なのかは不明だが、三者の放つ存在感は凸凹であった。その不揃ひさの妙味は有名歌手や役者の公演では得られまい。インディーズの醍醐味であらう。今後は、三者が同じステージに立つことで生まれる相乗効果のさらなる輝きに期待したい。
(おほた・ひろひと=フリーライター)

「神社新報」平成19年12月17日掲載

2007年12月20日木曜日

(墓79)ペルー慈恩寺の100周年記念式典/麻生太郎氏が祝辞

ペルー慈恩寺の100周年記念式典
麻生元外相が祝辞寄せる
報告と未来への課題
太田宏人


(サンパウロ新聞:2007年11月22日掲載)
 南米最古の仏教寺院である泰平山慈恩寺(ペルー共和国リマ県カニエテ郡/無住)で11月3日(現地時間)、同寺の創立100周年を記念する式典が行われた。主催は慈恩寺有志の会。
 式ではまず寺誌プレートの除幕式があり、南米とゆかりの深い麻生太郎元外務大臣から寄せられた祝辞が読み上げられた。元外相はペルーの日系人および慈恩寺の歴史を振り返りつつ、「日系の皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを冀う」と結んだ。
 祝辞の代読は地元ペルーでも屈指の金融機関であるKYODAIグループのハビエル・クズマ代表が行った。同グループは今回、寺誌プレートおよび歴住の写真額を新調する費用を負担した。
 除幕式後、仏式法要が厳修された。法要には読経師と呼ばれる在野の宗教家の徳田義太郎(ロベルト)師のほか、ペルー人で初めて僧侶になったカスティーヤ仙玄師らが参加し、曹洞宗の法式だった。
 慈恩寺100周年への参加を目的に日本からやってきたというある日本人は「慈恩寺内は空気が違う。堂外は南米だが、堂内は日本。しかも、独特の神聖さがある」と前置きし、「式典参加者は約30名で小規模なものだったが、慰霊の心がこもり温かい式だった」と感想を述べていた。
 法要後、地元の互恵組織であり、慈恩寺の維持管理を行うカニエテ日系協会のミゲル・グスクマ会長があいさつ。参加者への謝意を表し、「これからも各方面と連携し、微力ながらもお寺を守っていきたい」と語った。
 その後、参加者に食事が振る舞われ、慈恩寺有志の会が用意したおにぎりや太巻きなどの手料理を食べながら楽しい一時を過ごした。式にはリマ市の日系学校「ヒデヨ・ノグチ校」の中学生4人と教師1人が招待された。生徒の一人は「おにぎり食べるのは久しぶり。とてもおいしい」と満足げだった。
 慈恩寺は、明治40年に同郡サンタ・バルバラ耕地内に建てられた。二度の移転を経て現在に至る。現在の建物の落成は1977年。1992年以降は無住である。ペルー日系人協会および、その支援を受けるカニエテ日系協会が維持管理に当たっている。
 慈恩寺有志の会はペルーと日本にメンバーがいる在家のグループであり、超宗教で超宗派。慈恩寺は曹洞宗の寺籍と言われるが、実質的に曹洞宗と慈恩寺の関係は切れている。その証拠に、盆と彼岸の法要は、日系人協会に後押しされた浄土真宗本願寺派が、曹洞宗と交代で行うという異常事態になっている。

■大使館は不参加

慈恩寺有志の会では式典開催にあたり、リマの総領事館(大使館と併設)に大使もしくは公使等の参加を呼びかけたが、門前払いにあった。メールの返信文は「ご案内いただきました慈恩寺創立100周年祈念行事に関しまして、ご趣旨は理解申し上げますが、総領事館または総領事館館員として今回のプログラムに参加することは差し控えたく存じますのでご理解願います」(原文ママ)。
無論、これまでの慈恩寺の行事には大使館もしくは総領事館の参加はあった。現在の慈恩寺に移転した際は、小関領事(当時)が改築の音頭を取ったうえ、慈恩寺の看板は木本大使(同)の揮毫というふうに、慈恩寺と日本の在外公館の結びつきは強い。
式典前日、大使館に電話かけると「そんな話は聞いていない」と驚いた様子で、数時間後、領事館から電話がかかってきた。電話の主が門前払いをした人物だった。「じつは、赴任して数ヶ月。慈恩寺のことは良く知らなかった」という。
リマの日系人や在留邦人の社会では大使館・総領事館の批判は最大のタブーといわれる。サンパウロでは想像もできないことだが、リマはこのような出鱈目がまかり通る世界である。
ペルー日系人協会も参加に及び腰であった。これは、同協会と曹洞宗の関係が悪いことに原因がある。今回、主催した慈恩寺有志の会は超宗派で超宗教である。慈恩寺は近年、浄土真宗本願寺派と曹洞宗が「同居」する状態。その原因は日系人協会が介入したことによる政治的な要素が強い。また、信者団体や僧侶がいないことも影響している。
そこで慈恩寺有志の会では両宗派に呼びかけて合同での式典を提唱したが、浄土真宗本願寺派は8月に独自に百周年の法要をやってしまった(寺の歴史さえ知らずに)。曹洞宗は教団としては不参加であったが、有志の僧侶が参加することとなった。
この僧侶は、「有志の会」の制止を聞かずに曹洞宗をアピールしすぎた結果、日系人協会は「曹洞宗の行事」と誤解してしまったらしい。協会の関係者によると、式典の当日に曹洞宗の名前でリマの日秘文化会館のホールが借りられていたという。むろん、主催者である「有志の会」はそのようなことは誰も知らなかった。
それでも、協会の何人かの幹部は参加を希望していたのだ。が、「領事館も行かないのでは」と、最後は辞退してしまった。
領事館の人間は、不参加の理由を「日系人協会が参加しないのであれば」「日系人協会が公認しない行事であれば」などといっていたが、本末転倒・責任転嫁もはなはだしい限りであろう。だいいち、近年の慈恩寺をめぐる騒動は、信徒団体でもない日系人協会が、自らの規約に反して宗教に絡みすぎた結果である。協会が正しいとは限らない。協会が道を踏み外した場合でも、公館は、協会公認の行事であれば出席するのだろうか。
僧侶といい協会といい在外公館といい、慈恩寺のことを真剣に考えることは今後もないのだろうか。先人の霊が泣いている。
[写真:法要で読経する徳田師(中央)とカスティーヤ師(左)]


麻生元外相による慈恩寺100周年への祝辞(全文)

 明治32年、つまり1899年、南米へ向けた初の移民団が日本からペルーに到着し、今年ですでに108年の歳月が流れました。ペルーの日系社会は、南米の日系社会のパイオニアであり、これまでの歴史は苦難の連続であったことを思うと、こんにち、皆様が築かれた社会的地位の高さは驚異というほかはなく、同じ血を持つ同胞として、非常に誇りに思う次第です。
 日系の世代交代は進みましたが、皆様がいまでも日本の心を失っていないことを、私は嬉しく思います。現在でも、日系のご家庭には仏壇が祀られるばかりか、泰平山慈恩寺という立派なお寺が大切に護られ、毎年欠かさず先没者の慰霊法要が続けられてきたという事実に、身の震えるような深い感銘を覚えます。これはひとえに、皆様の先人への感謝の念の表れではないかと思います。日本に住む日本人が失ってしまった大切な気持ちを、皆様がお持ちになっていると言っても過言ではないでしょう。
 近年、慈恩寺の歴史が克明に調べられるにおよび、このお寺が南米大陸で最古の仏教寺院であることが判明しました。歴史を紐解けば、いまをさかのぼる100年前に、上野泰庵という禅宗の僧侶の指導のもと、当時は決して裕福とはいえなかった移民の方々がわずかずつ浄財をあつめ、サンタ・バルバラにお寺を建立したのが明治40年、西暦では1907年でした。創建当初から、お寺は宗教宗派に関係なく、多くの日本人が集まったそうです。
 お寺では、志半ばで病に倒れた同胞の霊を慰めるほか、お寺の隣には、これまた南米最古となる日本人小学校が建てられ、歴代のお坊さんが教壇に立ちました。
 古い写真を見ますと、慈恩寺の建築は純和風で、日本庭園も備えていたようです。遠く遥かな異国にあって、この場所は移民の方たちにとっての心のふるさとだったのでしょう。カサ・ブランカ耕地には立派な慰霊塔の建つ日本人墓地もあります。また、慈恩寺にはペルー全国の日本人墓地から集められた土が合祀されています。かつて「カニエテは移民の聖地」と呼ばれていたそうですが、まさにその聖地の中心が慈恩寺でしょう。
 お寺は二度の移転を経て、現在の場所にあります。今回、慈恩寺の略史を刻んだプレートを設置するに当たり、パドリーノの栄誉を賜りましたことに、心より御礼申し上げます。あいにく公務のため、プレートの除幕式には欠席しますが、これを機に南米の日系の皆様との絆をさらに深めることができますことに鳴謝申し上げます。
 最後になりましたが、皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを、冀うものであります。

平成19年11月3日
日本国 衆議院議員 麻生太郎



記事の墓場WEBサイト
http://www.geocities.jp/tontocamata/

2007年11月30日金曜日

(墓78)ペルーの呪術師を取材/呪いで死にかけた!



取材・文・写真/太田宏人



 ペルーには、クランデーロという土俗的な呪術系の治療師がいる。
 胃の痛みや肩こりの治療はもちろん、失せ物探し、悪霊払い、依頼すれば呪殺までやってくれるそうだ。クランデーロというのは、(ペルーの国語の)スペイン語辞書には「もぐりの医者」などと出ているが、言葉の原意は「治療する者」。
 シャーマン的な能力を駆使して治療を行なうという彼らは、ペルーでは市民権を得ている。
 私は数年、ペルーに住んでいたのだが、長女の夜泣きがひどいときに、妻(日系人)がクランデーロのところに長女を連れて行った。すると、「邪眼に見られたからだ」と診断したという。そして邪眼よけのミサンガを渡し、生卵に邪眼の霊障を乗り移らせる方法を教えてくれた。
 それは、生卵を赤ちゃんの顔の上で十字に動かすというものだった。
 生卵は遠慮したが、ミサンガはつけさせた。ちなみに、行きつけの小児科の先生は、「泣いたらお風呂よ」と言っていた。
 ミサンガの効果かお風呂の効果か分からないが、多少は夜泣きは改善したのを覚えている。
 それはさておき、南米にはアフリカ系の土俗宗教が大なり小なり入りこみ、スペイン征服以前の宗教と混淆しているというわけだ。
 ペルーでもナンバー1、2というクランデーロが仮名・O氏だ。一見、ただのおっさんだが、彼は警察の捜査にも協力し、フジモリ元大統領側近の家の「かくし部屋」を透視したことでも知られる。警察官からの信頼は厚く、「強盗との銃撃戦で弾が外れるように」というお祓いの申し込みが殺到しているとか。
 今回、O氏を取材した。日本のメディアは初めてだ。彼の家は、リマ市郊外にあった。
 体験取材である。そこで、ペルーに住む日本人の女性3人と一緒に行った。彼女たちはペルー人と結婚している人たち。むろん、O氏には彼女たちの事情を一切教えていないのだが、タロット占いで、彼女たちと、それぞれのダンナやダンナの家族との関係、日本にいる家族のことまで言い当ててしまった。ただし、人名を的中できるのはペルー国籍者に限るようだった。
 霊視はほとんどあたっていた。私も、過去に関係を持った女性や裏切った女性の風貌、人種・国籍まで全部当てられて、冷や汗が出た。そのときに聞いた予言も、だいたい外れていなかった。
 この霊障相談を撮影した。しかし多くの写真が真黒く感光していた。他の取材ではこんなことは、後にも先にもない。


悪霊落としとハト除霊

 次は悪霊落としである。これは私が体験した。担当はO氏の息子とお仲間2名。真っ暗で薬草臭くて湿気がむんむんする部屋に通され、目隠しをされる。そして、いきなり流される大音量の音楽。3人の男たちが金属の棒で、やはり鉄か何かを叩きつけながら、私の周囲を狂ったように踊り始める。そして「出ていけ、この糞野郎!」とかなんとか叫びながら、私の頭のすぐ近くで鉄を叩きく。そして、口に含んだ薬草のエキス(?)をブーッと、部屋中に噴出するのだ。要するに、私の体内にいる「なにか」を体外へ追い出すということらしい。
 悲しいかな、文明に毒された身。ただの苦痛な1時間でしかなかった。が、精神が健康なペルー人だと、トランス状態になるのかもしれない。
 そして次に、ハトを使った霊障除去が始まった。これも私が体験。なにかの呪文を唱えた息子氏はいきなり、生きた野鳩の胸を裂き、その裂け目を私の頭にこすり付けたのだ。
 べちゃ。
 内臓物が、凄まじく臭う。それより、あふれる血もしくは内臓液、またはその両方が、顔面や首筋に垂れてくるのだが、それが温かいのだ。変な意味で「いのち」を実感する。
次第にシャツやズボンにも垂れてくる。何より、まだ動いている心臓の鼓動が頭皮に響くのが、なんともいえない感覚だ。
「おまえの惚れっぽさは、憑依している霊が原因だ。こうでもしなければ治らない。悪い霊をハトの体に沁みこませるのだ」と説明しながら、ぐいぐいとハトの体の開口部を私の頭部になすりつける息子氏。惚れっぽさは霊の仕業か? などと疑念も浮かんだが、切り裂かれた2羽のハトの犠牲に報いるためにも、ここは素直に治療を受けた。
 2羽のハラワタをたっぷり頭皮になすりつけて、治療は完了。
「24時間、飯は食うな。酒も女もタバコも駄目だ。ハトの死体はおまえが川に向かって、後ろ手で投げ捨てろ。さもなくば、呪われるぞ」と、息子氏に命じられた。
 ところが、宿舎に戻る途中、悲しいかな川がなかった。仕方なく海に捨てたのだが…。
 数日後、リマの中心地で突然、私の乗っていたタクシーを挟んで警官と強盗団の銃撃が始まった。窓ガラスはすべて吹き飛び、車体は穴ぼこだらけ。奇跡的にケガはなかったが、これが「呪い」なのだろうか。惚れっぽさも、変化なし。やはり、ハトの死骸を海に捨てたからか。
 かわいそうなのは、巻き添えを食らったタクシーの運ちゃんかもしれない。

<写真>面倒くさそうな表情の呪術師(息子のほう)
ミリオン出版「ワールドストリートニュース」(2007)掲載

2007年9月7日金曜日

(墓77)2003年春、SARS流行期。香港へ行った

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自殺? そんなわけがあるはずない

 五月二二日から二四日まで香港および澳門(マカオ)へ、取材に行った。
 「香港へ行く」ということを、「自殺行為」と捉えた知人も、周囲には何人かいた。滞在期間中の二三日には、世界保健機構(WHO)が香港(および広東省)に対する「渡航延期勧告」を解除したが、日本では現在でも「香港へ行く」ことは、危険行為とみなされている。
 だが実際には、香港の人々は日常の生活を送っていた。患者からの飛沫感染対策で、地下鉄内やバスの車内、駅など、混雑もしくは密閉された公共スペースではマスクをつける人が多かった。しかし、つけてない人もいた。なお、日本~香港への往復はノースウエスト航空だったが、乗務員はマスクをしていなかった。
 マスクをつける/つけないという泡沫的議論はともかく、香港は活きていた。通常どおりに子どもは生まれ、老いた者は死んでいった。人々は働き、経済は動いていた。
 夕刻、次のインタビューまでに時間があまり、澳門行きのフェリー埠頭の隅で、船の出入りや釣り糸を垂れる人たちを見ていた。後ろのベンチでは若い二人の中学生の男女がじゃれあっていた。放心したように海を見ている人たちもたくさんいた。本を読んでいるサラリーマンもいた。むろん、感染経路が明瞭に判明され、患者との濃密な接触や飛沫感染を防げば、日常生活には支障はない病気だという認識が香港において広まりつつある時期でもあった。
 たしかに、未知の伝染病は原始的で本能的な恐怖を我々に与えるとはいえ、SARSアウトブレイク(爆発的な感染拡大)の張本人はウイルスそのものではない。マスコミだ。“感染地帯”の人々がマスクを着用した写真が配信されれば、「あそこの人たちは皆、マスク着用か」と思いがちだ。絵になる写真ばかりを報道したマスコミに非がある。「地下鉄からは人が消えた」などの一般的ではない特殊な事例を強調し、いたずらに恐怖を煽ったのは、だれか。そして、それを鵜呑みにしたのは、だれか。


在外公館、ここでも不評? SARSで露呈、香港総領事館の機能不全

 重症急性呼吸器症候群(新型肺炎/SARS)が集団発生した香港で、在住の日本人(在港邦人)たちは、在香港日本国総領事館に対する不信を強めている。
 その原因は、SARS騒動への総領事館の対応の不味さだ。たとえば四月の上旬、外務省福利厚生室の医務環が香港に臨時で出張し、「個別相談」を行うことになった。が、案内が直前になったうえ、「広報が徹底していなかった」(在港邦人)。しかも当初は、「御相談を希望される方が多い場合は、お断りすることがあります」(在香港総領事館のホームページより)という不誠実なものだった。
 さらに、SARSに関する説明会の開催が四月九日に急遽決定したものの、会場は一〇〇人程度しか収容できない香港日本人倶楽部「松の間」だった(在港邦人は約二万人)。さらに「座席数が限られておりますので、希望者多数の場合には、入場を制限させて頂くこともあります」(同上ホームページ)という、あいかわらずの“切り捨て”姿勢が目立つ。はじめからこんなスタンスなので、当然、広報も行き届いていない。当日集まったのは、領事館のホームページを見た人だけが中心。それでも数百人が集まった。会場に収容できない。そこで、説明会を計四回に増やした。当初は、午前と午后に一回ずつだった。

 当日の医務官の説明も「推測に基づく発言ばかりで、かえって不安になった」(参加者)というもの。さらに、会場の選択ミスは領事館の責任であるはずなのに、説明会の担当者は、最終回において参加者を前に「私はもう、同じことを三回も喋っている。疲れてます」などと暴言を吐いている。
「総領事館は、これまでも広報が不得手だった。在港邦人全体への連絡体制も確立させていないし、する気もないようだ」と、香港在住一三年目の男性が憤慨する。今回のような“非常時”でも、日曜日は完全休館という下駄の高さ。これでは紛争やテロ、大規模災害などが香港で発生しても、邦人の安否確認など望めない。
 これは、香港だけのケースなのだろうか。
(2003年に書いた記事。某誌にて不採用、某誌にて採用)

追記。
香港の邦系企業の駐在員の家族は、今秋のSARS流行をうけて、
いっせいに日本へ帰国したが、
一時保育などでは、「香港帰り」の子どもの預かりを拒否する
保育園もあった。
実際わたし自身、自分の子どもが通う保育園では、
送り迎えのときに「香港行ってました」とは
言えない雰囲気だった。

2007年9月4日火曜日

(墓76)鬼木市次郎さん、死去

ブラジルに鍼灸マッサージ学校設立の功労者
両親はペルー移民


 鍼灸マッサージ師で教育家、事業家でもあった鬼木市次郎さんが3月26日、療養先の福岡県柳川市で死去。94歳だった。死因は老衰。密葬を済ませ、葬儀はブラジルで行なわれる予定。
 鬼木さんは両親がペルー移民。父親(伝次郎)の墓はリマ市のエル・アンヘル墓地に、母親(カメ)の墓はリマ市北方のサン・ニコラス墓地にそれぞれある。
 鬼木さんの両親は鬼木さんを残してペルーで働いた。いつかは鬼木さんを呼ぶつもりであったが、果たせずしてペルーで亡くなった。
 鬼木さんは福岡で育ったが、小学生のときに視力が0・03まで低下。1932(昭和7)年、柳川盲学校を卒業。その後、中国大陸で鍼灸マッサージで成功するも、敗戦により、妻子と裸一貫で帰国。鍼灸マッサージの治療院やレジャー施設を経営し、東京に学校法人鬼木医療学園・国際鍼灸専門学校を建設。
 1973(昭和48)年には父母の眠るペルーを初めて訪問。感激の墓参を果たしたほか、鍼灸マッサージの無料治療を行い、好評を博した。
 鬼木さんの胸中には次第に「南米の視覚障害者に自活の道を与えたい。それには鍼灸マッサージの学校をつくる」という夢が膨らんでいった。
 1990年、ブラジルのサンパウロに鬼木東洋医学専門学校を設立。盲人教育に貢献するとともに、ブラジルでの東洋医学の普及に大きな役割を果たしている。同校には診療所も併設され、地域住民らに好評。
 近年、鬼木さんは体調を崩し、生まれ故郷の柳川に帰国。療養中だった。(太田宏人)
【写真】サンパウロ市の鬼木学校・診療所
サンパウロ新聞等に投稿
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(墓75)深澤要と鳴子温泉

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 戦前の童話作家で詩人・版画家の深澤要(ふかざわ・かなめ1904~57)は、本業よりもむしろ、こけしの研究にのめり込み、その蒐集に没頭した。
 彼は600余点のこけしコレクションを、のちに鳴子町(宮城県)へ寄贈。これをもとに鳴子温泉の近くに「日本こけし館」が開館した。
 深澤はこけしを求め、兵庫県西宮の住まいをあとに、まるで巡礼者のように東北への旅を続けた。彼の歌には寂しさと貧苦がにじむ。
「空晴れて山さむざむと雪のこり炭焼小屋に煙りは立ちぬ」(昭和15年、福島県・小原温泉)
「みちのくは遥かなれども夢にまでこころの山路こころのこけし」(遺作『奥羽余話』)
 鳴子および遠刈田(宮城県)、土湯(福島県)はこけし発祥の地とされる。だからこそ深澤は、鳴子への寄贈をおこなったのだが、実はこれらの土地は、古くから湯治客で賑わった温泉地である。民俗学の宮本常一はじめ多くの学者によれば、こけしは湯治土産であったらしい。
 深澤要のこけしを求める旅は、同時に温泉を訪れる旅路でもあった。
(あるムック本に書いた原稿)
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(墓74)南米最古の神社/東京植民地神宮の夢

南米最古の神社/東京植民地神宮の夢
ペルー新報 元日本語編集長・太田宏人(神道学専攻)



 ブラジルに東京植民地神宮という神社があった。
 この神社の名前はブラジルの移民史において頻繁に語られることはない。忘れ去られた神社であるが、南米大陸最古の神社である。
 海外神社論の大家として知られる小笠原省三が書いた『海外の神社』(昭和8年)によれば、かつてブラジルにはサンパウロ州内に「ボーグレ神社」と「東京植民地神宮」が鎮座していたという。
 ボーグレは、先住民「ブーグレ」族のことであろう。所在地は第一上塚植民地(プロミッソン)。一方の東京植民地神宮は、その名の通り東京植民地(モツーカ)にあった。
 同書ではボーグレ神社をブラジル最古の社とするが、実際は違う。上塚植民地は大正7(1918)年、東京植民地は同4(1915)年の建設。同書によれば、二つの神社は、それぞれの植民地が開かれたのと同時期に創設されたというので、東京植民地神宮のほうが早い。南米の他の国に神社は存在しなかったので、同神宮が南米最古であろう。
 小笠原は昭和3(1928)年に渡伯し、実際に両社へ参拝している。しかも現役の神主であり神道学者だ。そのため、建物や鳥居の形状等の記述は精確で、信用に値する。
◎……◎……◎
 本年2月、東京植民地の跡地を訪れた。
 サンパウロ市からアララクアラ市までは長距離バスで約4時間。同市に住む馬場實子(じつこ)さんを訪ねる。東京植民地の指導者だつた馬場直(すなお)の長男で故・馬場謙介氏の夫人だ。謙介さんは東京植民地生まれ。戦前に日本で教育を受けた。日本の敗戦後、日本にいたブラジル出身者を帰伯させるために奔走したことで知られる。また、日本軍兵士として戦場へ赴き、戦死したブラジル二世たちの足跡を追ったほか、自身も朝鮮戦争では従軍記者として活躍した。ブラジル帰国後はサンパウロ新聞アララクアラ通信員として記者魂を感じさせる名文を多く発表したことは、読者のよく知るところだろう。
 謙介さん亡き現在、實子さんは日本語教師をしているとのこと。
 東京植民地神宮について質問すると、
「神社はよく知りません。東京植民地の出身者に訊くと、それらしいものが小学校の校庭の片隅にあったそうです」
 残念ながら、社殿などの写真は持っていないという。しかし、實子さんから東京植民地や指導者であった馬場直について、他では聞くことのできない貴重な話を伺うことができた。
 同地は、「日本人による日本人のための」初の植民地だった。平野植民地よりも早かった。
 馬場直は長崎県南高来郡出身で大正3(1914)年に渡航。ブラジル人地主の下でなかば農奴のように扱われる日本人の境遇を憂い、自ら植民地経営に乗り出すことを決意。同志の15家族とともにパウリスタ線モツーカ停車場の近くに土地を求め、「東京植民地」と命名、コーヒー等を生産した。
 馬場の理想は「半永久的な農業王国」の建設だった。植民地の中心に、伊勢の御神霊を祀る大神宮を設置したのも、馬場が永続的な「日本人村」の理念を持っていたためであろう。先に紹介した小笠原の資料によれば、馬場はキリスト教徒だった。だが、戦前のキリスト者は現在と違い、国を愛し、皇室を敬い、寺社を大切にした。馬場が神社を創建しても不思議はない(實子さんによれば、馬場は「一番嫌いなものは神父と僧侶」と公言していたそうだが)。
 一方、その後、ブラジル各地に出現した日本人植民地で社寺が建設されることはなかった。代わりに日本人小学校(兼集会場)の御真影が御神体の機能を果たした。この点、東京植民地神宮は異色だ。
 東京植民地神宮とはどんな神社であったのか。前掲書を引用しよう。
「始め周囲に木柵を巡らした純日本風の小社殿を建築したが、(中略)今では周囲一坪ばかりの煉瓦建の堅固な建物の中に小さな住吉造りの社殿を安置し、鳥居を建て、玉垣を巡らし、玉垣の内には美しい砂利を敷いている。(中略)縄を張った鳥居(中略)、社殿には紫のメリンスの幕が巡らされてあった。年に四回神社の祭典を執行する。神職は小学校長を兼務せる生駒氏、生国の伊勢で二ケ年間神職と小学教員を奉仕せる人」
 植民地建設の当初から、移民はマラリアで斃れた。初年度だけで8名の家長が死んだ。最初の入植戸数の半数である。馬場の娘も死んだ。
 前掲書は、神社創建によってマラリアの猛威が低減したと強調する。しかし実際は、犠牲は続いた。同植民地への入植者数は延べ約1500人だったが、死亡者は約300にものぼる。
 それでも同植民地は発展を続けた。歴代の総領事が視察に訪れ、戦前は「模範植民地」と呼ばれた。
 昭和5(1930)年前後が同植民地の最盛期だった。それを境に、植民地から人が減っていった。
 焼畑に依存する当時の開拓農法は、30年ほどで地力を奪い尽くした。移民たちは、そうした耕地に見切りをつけ、次なる開拓地へと進出した。こういった植民地に「村の鎮守」が建設されなかったのは、移民の漂泊性が影響しているのだろう。
 東京植民地神宮も終焉の時を迎えようとしていた。同地出身者によれば、6月にはミヤマツリと称する奉納相撲が大々的に行なわれていたが、人が減り、祭典も消滅した。
 終戦時には30家族しか残っていなかった。
 昭和21(1946)年、馬場一家は東京植民地からの退去を余儀なくされた。皮肉なことに、日本人による農業王国の建設という理念を燃やして耕地に残留したほとんどの者たちは「勝ち組」だった。一方、理性的な馬場は認識派であった。また、謙介さんの弟の道雄さんの岳父は、勝ち組の凶弾に倒れた野村忠三郎だった。
 馬場家は連日、文字通りの石打ちの被害を蒙り、屋根には穴があいてしまった。
 馬場直はのちにサンパウロに移り、昭和48(1973)年に逝去した。遺産はなかった。
◎……◎……◎
 馬場實子さん、同地出身の外間(オカマ)エレノアさんの案内で、アララクアラ市からタクシーでモツーカへ向かう。
 多くの人に「現在は植民地のよすがを感じさせる物は何もない。行くだけ無駄」と忠告されたが、その土地を自分の足で歩き、その空気を肺に吸い込んでみなければ判らないことの方が多い。
 驟雨のなか、現地に到着。たしかにかつての植民地は、一面のサトウキビ畑に変わり果てていた。神宮はいうに及ばず、小学校も移民の家も、何も残っていない。
 だが、移民たちが死力を尽くして格闘したテーラ・ロッシャは往時のままだ。子供等が泳いだという小川も、昔日の流れを留めていた。
 民家が一軒だけ、見えた。尋ねてみたが、留守のようであった。
 建物を見ていると突然、「あのバルコニーは、昔のままです」とエレノアさんがいう。實子さんによれば、そこはエレノアさんの生家の場所とのこと。
 庭先で柿の樹を発見した。柿は、日本人がこの大陸に広めた。
 ここに、日本人の生活があった。
 この場所で人が生き、そして死んだ。
 その中心に、南米最古の神社があったのだ。(おわり)

※ 本取材にあたり、ブラジル日本移民史料館の小笠原公衛氏には大変お世話になりました。心より感謝します。

「サンパウロ新聞」2007年3月28日、29日掲載

…二礼二拍手一礼(忍び手)


【写真】「ミヤマツリ」と称された奉納相撲(撮影年不明)。行司は馬場直か(サンパウロ市・清水ホーザさん提供)
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(墓73)パドレ・マルティネスの葬儀ミサ(個人的な回想)

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忠実なよい僕だ
よくやった
主人と一緒に喜んでください
(マタイ25-21)
“Siervo bueno y fiel entra en el gozo de tu Señor”
(Mat.25-21)

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 2007年3月10日、JRの四谷駅の階段を上ると、一点の曇りもない快晴だった。
 パドレ・マルティネスに、しばしの別れをするために、聖イグナチオ教会のマリア聖堂へ向かう。この日は、雑誌「SOGI」の取材で訪れた。在日のラテン系コミュニティー関係のスペイン語メディア以外は、彼の葬儀も生涯も取り上げてはくれないだろう。だが、パドレ・マルティネスという存在は、日系ペルー人の歴史を語る上で、欠くことのできないものであると思う。たとえそれが、良きイエズス会司祭の「平凡な」生涯だったとしても。
 そして僕は、書くことでしか、彼に応えられないのだから。
 そういう意味でも、雑誌「SOGI」の存在は、ありがたい(雑誌「SOGI」のライターとして言えば、カトリックの葬儀は、かなり好きだ)。
 施行する葬儀社との約束の時間は、開式の1時間前の午前9時30分だった。
 少し早くついたので、大聖堂の土曜ミサを拝見する。改修が済んだ教会は、全体的に簡素で都会的な造りになっていて、なにかますますプロテスタントの教会ように見えてしまう。
 時間になったので、カメラマンの関戸さんと合流し、マリア聖堂へ。祭壇等の写真撮影を行なう。柩がない。聞けば、目下、火葬中とのこと。つまり、事情があってこの日の朝早くに火葬にしてから、会場に遺骨を運ぶというのだ。
 骨葬にした理由は、宗教的もしくはパドレの出身地の慣習等によるものではなく、早く火葬にしなければならない極めて個別的な理由があったためだ。
 前日、「葬儀ミサは骨葬だよ」と聞いていたが、こういうことかと理解した。
 在東京ペルー総領事館の供花のネームカードがスペイン語だった。施行社の人に「芳名板に日本語で書きたいが、どう書けばいいのですか?」と質問されたので、手伝う。
 式前には、パドレと親しかったエルマーノ(修道士)・エルナンデス(スペイン出身)と、パドレ・マルティネスの僚友で、日本での国際布教の先頭に立つパドレ・マギーナ(ペルー出身)に、パドレ・マルティネスについての質問ができたのは幸いだった。むろん、二人とも日本語は完璧。こちらからは、スペイン語で話しかけた(礼儀だろう)。
 しかし、やはりカトリック教会はすごい。日本の「内なる国際化」にきちんと対応している。デカセギ労働者を排除しない。日本のほとんどの宗教団体(とくに伝統教団)は、未だに「国際布教」は海外へ、という認識しか持っていない。日本国内でいえば、ホワイトカラーのみだ。明らかな偏見。人種差別。
 思えば、伝統教団に憤慨して、よく、パドレ・マルティネスに意見をぶつけたものだ。そういうときのパドレは、巌(いわお)のように動ぜず、しかし、晴れた日の森のように穏やかな笑顔をたたえて、
「カトリックのカミサマは、富士山と一緒ですよ」と、変化球で諭してくれた。
議論が突っ込んだものになると、位牌論・仏教経典論などで盛り上がった。「仏陀の名前を連呼するだけのお経に、どんな意味があるのですか?」
 家庭のことについても、よく話をした。多くの日系ペルー人の家庭同様、うちも結婚式ではパドレにお世話になり、二人の子どもの洗礼もしてもらった(上の子はペルーで。下の子は日本で)。
 忘れえぬ先生だった。

 開式の少し前に、遺骨が到着した。
 そして、開式。

「ヒロヒト。私のね、横顔はあんまり写さないでくださいよ」と冗談交じりにパドレが言っていたことを、なんとなく思い出す。
「上智で教えていたとき、学生が『花王』って言うんですよ」
 アゴが長いから、とのこと。
 目が滲む。
*      *      *
 式では白い祭服を着用した20人を超えるイエズス会司祭が列席し、「素晴らしい同志を世に送り出してくれた神に感謝を捧げた」…と、カトリック風に書けばこういうことになるのだが、こちらはただ、「悲しい」の一言。
 涙が止まらなくなり、声を押し殺して聖堂の隅で突っ立っていると、葬儀社の方(この方も、立派なキリスト者だった)が、「聖体拝領しなよ!」と誘ってくださる。

 この葬儀社は、まったく宣伝をしないし、いずれかの神父の紹介でなければ葬儀を受けないという。キリスト者の帰天に心を込めて奉仕したいから。

 聖体拝領のために、祭壇に近づく。語りかけるような頬笑みの遺影をあたらめて、…見ようとしたが、焦点が合わない。作法も何もなく、聖体拝領し、せんべいを噛み砕く。しょっぱい。

 告別式でロヨラ・ハウスのリベラ館長が挨拶した。
「ルーチョ(ルイス・マルティネスの愛称)の人生は、旅でした。スペイン時代も数多くの土地で仕事をし、日本、ペルー、そして日本と。しかし、その旅は、自分で決めた旅ではありませんでした。でもルーチョは、言われれば、どこへでも喜んで出かけました。
 そして最期にたった一つだけ、自分で決めた旅をしました。それは、帰天です」

 パドレ・マルティネスは昨年12月26日に入院し、その後、一時退院。3月7日に再入院が決まっていたという。その日の朝、自分のベッドで逝去した。再入院を、嫌がっていたという。
*      *      *
 私は、カトリックの洗礼を受けていないし、カトリック教会にそれほど親しみを感じていない。そんなことは百も承知で接してくださったパドレ・マルティネス。
「日系ペルー人に対するカトリックの布教史を調べて、何かの形で発表しましょう」という二人の約束を、私は決して忘れません。ただし、その布教史の1ページに、あなたの人生を過去形で書かねばらないことが、とても悲しい。

「ヒロヒト、疲れたときはね、コカ(コーラ)ですよ。びんびんになりますよ」

 ルイス=サンティアゴ・マルティネス=ドゥエニョス先生、
 どうぞ、これからも見守っていてください。

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写真:葬儀ミサの風景
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(墓72)パドレ・マルティネス帰天(77歳)

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 日系ペルー人に対するカトリック布教に多大な貢献をしたルイス・マルティネス神父(パドレ・マルティネス)が日本時間の3月7日午前5時30分、心不全のため宿泊先のイエズス会・ロヨラ・ハウス(東京都練馬区)で帰天した。77歳、イエズス会生活は60年6か月だった。
 通夜は3月9日(金)午後5時からロヨラ・ハウス、葬儀ミサ・告別式は翌10日(土)午前10時30分から東京四谷の聖イグナチオ教会マリア聖堂で執り行われる。
 連絡先はイエズス会日本管区(電話:03-3262-0282)。
 パドレ・マルティネスはスペイン生まれ。戦後のカトリック教会の日本布教を担うため1953年に日本へ赴任。上智大学で教鞭を執った。その経験から日本語が堪能だった。その語学力(スペイン語・日本語)を評価されて、1964年にペルーへ赴任。セントロのサン・ペドロ教会に執務室を構え、日系人のasesor espiritual(心の助言者)として35年間の長きにわたって活躍した。数多くの結婚式や洗礼を行なったほか、カトリカ大学でも講義を行った。また、パドレ・マルティネスの代表的な著作である日西辞典は、いまも多大な好評を博している。
 「いまや、数万人のペルー人が日本にいる。彼らの役に立ちたい」と、2000年以降は再び日本での布教生活に尽力。群馬県や栃木県など、ペルー人が多く住む場所へ精力的に出かけるほか、電話やe-mailによる相談も受けていた。一時期、パドレ・マルティネスの事務室のあった上智大学や、宿泊先のロヨラ・ハウス(イエズス会修道士の老人施設)には、訪問客が絶えることがなかった。また、WEBページでの教話も行い、教話をまとめた著作集(スペイン語)も一年に一冊以上のペースで出版した。
 パドレ・マルティネスの御霊に安らぎあれ。

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写真①パドレ・マルティネス(1968年/左側は旧リマ日校の小川長男先生)
写真②晩年のパドレ・マルティネス(2000年/上智大学で)
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(墓71)「人間性を持たない研究開発が、人間に益することはない」

「人間性を持たない研究開発が、人間に益することはない」
~産総研35億円事件の取材メモ~
ライター・太田宏人



(2006年)9月22日発売の「週刊金曜日」に、産業技術総合研究所(産総研)のつくばセンター第6事業所を舞台にした35億円事件を告発する記事を書きました。勇気ある内部告発がなければ、この事件は表面化さえしませんでした。事件のあらましと、取材をしながら考えたことを書いてみたいと思います。



●児戯もしくは悪質な冗談?


 記事の内容は、①第6事業所で35億円にものぼる公金が無駄遣いされていること。②実験動物の管理が、あまりにもずさんである―という2点です。
 35億円とは、膨大な金額です。いったいどんな無駄遣いかというと、「実験施設(6-13棟)を作ったら、まったく使えないシロモノだったので、産総研ではなく、外部の施設を有料で借りた。外部だと何かと不都合なので、今度は、産総研内の使えない施設を改修して、使えるようにします」という顛末です。35億円のうち、幾ばくかでも私的に流用された証拠があれば刑事告発も可能でしょうが、誰も責任をとらず、このような児戯にも等しい愚行が、現在も続けられているのです。
 ②に関しては、産総研の第6事業所におけるカルタヘナ法(*)違反は、政府も認めています。
 産総研35億事件を告発したのは、第6事業所で実験動物と施設のメンテナンスを行なっていたアニマルサポート社(岩崎啓吾社長)です。同社は2004年にも、東京理科大学の実験棟(千葉県野田市)の実態を内部告発しています。そのさい岩崎啓吾さんに取材し、原稿を書きました。以下、その一部を抜粋します。

 理科大の実験施設の実態は「驚愕」そのもの。動物はマウスを使っていたが、普通は数匹しか入れてはいけないケージに、雄雌を入れっ放しにするので、勝手に繁殖し、それをさらに放置するため、最終的には何十匹にもなってスシヅメ状態で共食い。こうなると、岩崎さんらが、尻尾を引っ張って頚椎を脱臼させて殺したり、死に至る量の麻酔を投与したり、場合によっては首を鋏で切るなどの「処分」をする。もちろん、こうならないようにするのは研究者の義務だが、彼らはそんなことには関心がない。研究者が少し気をつけていれば、無駄な間引きを防げるはずなのに。
 これが、普通の現場だ。生命倫理的にもおかしいが、もっと変なのは、「実験施設内で勝手に繁殖する」ということ。こうなると、個体を特定できない。遺伝系統は不明になってしまうのだ。そしてそんなマウスが、さも遺伝系統が分かっているかのようなIDをつけられて論文に書かれる実態に、岩崎さんたちは憤った。
 さらに「可哀想だから」(可愛いから?)という理由で、若い研究者や学生が、遺伝子改変マウスを自宅に持ち帰ったりしていたそうだ。実験施設の外を徘徊するマウスを、近所の住民が目撃したこともある。バイオハザードという言葉を、この子たちは理解していないのだ。
 「これで『科学』が成立するわけがない。なんのための実験なのか?」と岩崎さん。税金を、外部のチェックも受けずに湯水の如く使えるような環境にいると、感覚が麻痺して、小学生でも分かるような善悪の判断さえできなくなるのだろう。幼稚だ。日本の科学のベースにも「幼児性」がはびこっている。(漫画実話ナックルズ/2005年12月掲載原稿を一部修正)


●市民が検証できない科学行政


 もしもあなたの住んでいる場所の自治体で、1000万円の無駄遣いが発覚したとします。「市役所の倉庫を作った。しかし、雨漏りが激しいので、民間倉庫を借りたものの、やはり不都合があるので、市役所の(使えない)倉庫の屋根を改修する」というようなケースを想定しましょう。1000万円というのは、産総研35億円事件に比較すれば、「わずか」350分の1の金額です。しかし、大問題になります。市長の対応の仕方によっては、リコール請求されることもあるでしょう。
 1000万円といわず100万円でもいいでしょうが、とにかく、自治体ではここまで住民の監視ができます。しかし国が管轄する科学行政の内部は、本当にダークゾーンです。軍隊に対するシビリアン・コントロールという言葉がありますが、この言葉は、いまは自衛隊だけではなく、科学行政にも適応されるべきでしょう。
 よく、「タダ酒(誰かのおごり)は何杯でも飲める」などと言います。自分の懐がダイレクトに痛まない出費に対して、財布の紐は緩みがちになるものでしょうか。産総研事件にも、どうも同じ臭いがします。科学の「先端」を担う学者たちこそ高潔な人間性を有して欲しいものですが、現実は理想とは反しています。
 彼らの人間性の低さについて、岩崎さんもたびたび指摘しています。私も、取材にあたって痛感しました。たとえば取材に対して、やたらと専門用語を並べ立て、しかも回りくどい答え方をすることです。科学者とは思えない理路「不」整然です。公金を使っている以上、自分達の行動について国民に説明する義務が確実にあります。それをせずに「一般人を見下した物言い」(岩崎さん)をするのですから、何かが狂っています。

●科学者の危険な人間性


 産総研35億円事件について、参議院の谷博之氏が国会の質問主意書で取り上げ、国が回答しています(AVA-netの120号参照)。これに基づき、文部科学省が今年9月8日に発表した報道資料があります。要点は、産総研ではカルタヘナ法違反があったが、不適切な措置は是正した、というものです。「不適切な措置」とは、

① 拡散防止措置をとらずに遺伝子組み換え(TG)マウスを飼育していた(ただし、動物は逃げなかった)。
② TG動物の飼育施設ではカルタヘナ法によって、その旨表示する義務があるが、されていなかった。


 ここで大きな問題になるのは、「逃げていない」ことの信憑性の低さです。産総研でも理科大と同じようにずさんな飼育をしているため、まさにネズミ算式にマススが繁殖しています。ケージは小さいので、個体の上に乗ることによって、別の個体が簡単に脱走できます。アニマルサポート社の元スタッフの手記によれば、ケージの給水瓶を入れない研究者がいるため(つまり、マウスは水さえ与えられない)、その穴から脱走していたそうです。しかもアニマルサポート社のスタッフが、脱走したマウスを捕まえて研究者に抗議すると、「お前たちが管理しないからだ」と叱責されるのが常でした。挙句の果てに研究者の私用まで押し付けられる始末。
 文科省のリリースにある「拡散防止措置」とは、実験室のドアの下部に、鉄板を立てることなどを言います。それが設置されていない部屋がいくつもあったわけです。アニマルサポート社がかろうじて捕まえた(つまり、逃げていた)マウスのほかに、建物外に逃げた個体がいても、おかしくはない状況です。「実際には逃げていない」と言いますが、ネズミ算式に増えてアニマルサポート社のスタッフが仕方なく処分していた状態で、逃げていないことを物理的に確認できるのでしょうか。敷地内の野外で白いネズミを見た、という情報もあるほどです。まったくの詭弁です。
 このリリースの中に、驚くべき一文があります。「清掃等を行なう管理業者が遺伝子組換え生物等の使用者であるという認識が(研究者に)なかった」。
 アニマルサポート社の吉村さんは「『掃除屋がそんなことを知る必要はない』という意味でしょう」と解説する。彼らには実験動物の情報を伝えなくてもいいというのが、少なくとも産総研での「常識」のようです。
 今回のリリースでは、琉球大学でも「許可を受けずに遺伝子組換えHIVウイルスを使用した」と報じられています。清掃業者には、やはり教えられていなかったのでしょうか。実験施設や器具の清掃管理、実験の終わった動物の遺骸の処理も、“間引き”も清掃業者の手で行なわれます。しかも産総研の第6事業所では、規定数以上に動物がいるため、糞や床材、死骸が多すぎて、廃棄物が膨大な量になります。すると、冷凍式ゴミ箱に廃棄物が収まりきらず、ゴミ箱の上に、黒のポリ袋が山積みにされていたのです。むろん常温です。
 清掃業者は、必要な情報も与えられず、リスクの高い生物汚染の最前線に立たされています。
 人を人と思わない研究の現場。人間の尊厳さえ認めないこのような場所で動物実験の3R(数削減、苦痛軽減、代替)は期待できません。
 彼らの高尚な研究開発は、本来は人間を幸福にするためのものです。だからこそ公金を使うことが許されるのです。しかし、その実態は公共の利益になど結びついていないのではないでしょうか。逆に、公金を無駄に浪費し、バイオハザードの危険さえ撒き散らしている。何よりも、現場には人間性が欠如しています。このような研究開発が、本当に人間を幸せにできるのでしょうか。
 
 
(*)カルタヘナ法…遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律。生物多様性の確保を目的とするカルタヘナ議定書の発効にともない、議定書の実施を目的として制定された法律(2004年2月19日施行)。


【写真]産総研第6事業所
【写真】冷凍ゴミ箱に入りきらず、その辺に置かれている実験動物の死骸その他の廃棄物(ビニール入り)
【写真】ギュウギュウ詰めのマウスたち(産総研@つくば)

AVA-net:121号(2006年11月号掲載)
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(墓70)治安が悪いけど安い!ペルーへ行こう!!

治安が悪いけど安い!ペルーへ行こう!!
■人質事件を解決するために沖縄から神がペルーに来た!
ルポ&写真/土崎英穂(ペルー在住ライター)

1997年当時の記事です


 今なら、ペルーは、安いよ。
 乗り継ぎなら、往復13万円を切るってさ。
 行くなら、観光客が激減している今に限る。ペルーの観光業のサービスは世界的にも低い部類だけど、今なら笑顔でお出迎え。
 旅行するなら、今だ。
 治安はね、人質事件とは関係なく、悪いよ。
 いつものことだもん、ひったくりに強盗、レイプ、警察官の汚職は当然。あまり、事件の影響はない。でも、観光客が減った分、ペルー人が襲われているって。それと、中心街のゴミ溜めみたいな市場(どろぼう市)の撤去が始まって、道路に寝ていた少年犯罪者集団がまるでクソ暑い夏のスズメバチみたいに気が立っているのは事実。こいつらの強盗だけは、ちょっとひどすぎる。
 公邸の周辺も、警官が多くて、みんな自動小銃持っているからちょっと物々しい。こっちの警官は自動小銃は当たり前で、バズーカも戦車も持っているから、これが日常なのだ。驚くことじゃない。
 先日、イエス・キリストに会ったよ。日本人だった。自分で言うんだもん。「聖書に書かれているキリストは私だ」って。この人質事件を解決するために、沖縄県の宜野湾市から来たって。46歳。去年の暮れあたりからリマにいるらしい。
「私は、日本の沖縄県宜野湾市大字×××の又吉光雄という者です。去年(1996年)の4月以来、沖縄県において、私が再臨のイエス・キリストであることを表明しています。(中略)再臨の目的は人間の人格そして地球をその破綻・破滅から守るため、うんぬん。再臨の目的のひとつとして、今回の日本大使公邸人質事件を解決するためリマに来た、うんぬん」
  --あの、神様ですよね?
「そうです(注=神とキリストは別物じゃないの? まあ、いいか)」
  --全智全能ですよね、トーゼン。
「言うまでもない」
  --だったら、今すぐこの事件を、その特殊なちからで解決して見せてくださいよ。
「それはできない。私がゲリア(注=テロリスト)とペルー政府の両者を納得させなければならない。そのためには、私の救済プランを保証人委員会(注=今回の事件での調停役)が採用するしかない。それしか人類が救われる道はないのだ! 私が保証人委員会に入るべきだ!! 時にあなた」
  --はい?
「スペイン語が出来ますか?」
  --ええ、まあ。
「通訳して頂けないでしょうか?」
  --……。全知全能なんでしょう?
「そうです」
  --いいや、あんたはニセモンだよ。
「うぬぬ。あなたの目は曇っている。いつか必ず、バチ被るぞ」
  --ありがとう。
 このカミサマ、日本の大使館やペルーの大統領府にまで足を運んだが門前払いにされた。話を聞いたのは、ボクが勤めるペルー新報(日刊紙)だけだった。他にも、日本のボランティアを職業とする若者が「ボクが、ペルーの貧困をなくすよう、犯人たちに働きかける。だから旅費を送って欲しい」というお願いの手紙がペルー新報に届いた。
 政府はドス黒いけどさ、一応「国家」なわけで、個人がどうのこうの言って事態が変わるわけないだろうに…。
 それから、この事件のどさくさに紛れて、統一教会がペルーの実業界(とくに、日系社会)に触手を伸ばしている。「世界平和女性連合」とかいう名前で日系人の家を回ってるんだけど、大脳新皮質を破壊された、あの神がかった独特の愛らしい眼差し。バレバレだよ。この「眼差し」って、匂うよね。世界のどこにいても。
 だいたい貧困貧困いうけど、餓死者なんていないんだよ、この国には。道路で物乞いしている乞食は、新宿にだっているじゃないか。
 バスに乗り込んで「僕は泥棒していました。娑婆に出ても仕事がありません。パパはアル中です。お兄ちゃんはラリッてます。ママは病気で弟のミルクにも困ってます。お助けを…」というやつがたくさんいて、聞くところによると、一日に70ソーレスくらい稼ぐ奴もいるとか。これを週休2日でやったら、一ヶ月に1400ソーレス(5万円強)。週休1日であくせく働いている僕の給料の2倍以上あるじゃないか。
 これも、ペルーの「貧困」の現実の一部なんだ。
 ペルーは、食べ物がおいしい。ジャガイモやトウモロコシの原産地。野菜がウマイ。トマト、ピーマン、紫タマネギ、カボチャにレタスなどなど。
 肉も豊富だよん。若鶏(ぽーじょ)の丸焼きには首や脚がついてくるから、ワイルド派には応えられないよ。ジューシィ。うまい。
 シーフード(まりすこす)もいいね。ピリッと辛いマリネ(せびちぇ)なんて、一皿50円ですぜ。もちろん、酒も飲んだら、一食数万円もするディナーだって食べられる。「貧富の差の激しい国」の典型というわけだ。
 ぼったくりと強盗の多い国だけど、人情がある。日本人だけが狙われているわけじゃない。油断していれば、この国の人だって被害にあう。新聞社の同僚(おじいちゃん)なんか、この2年で18回も強盗にやられた。彼、現在も前人未到の記録を更新中だ。
 スラムや泥棒、日本大使公邸の周辺なんて、観光客は行く必要ないよ。マチピチュやナスカ、そのほかのインカの遺跡、地方の村、アマゾンの国立公園、トラックの二台に憲男婚で、三日も四日もかかるアンデス越え、博物館、リマ郊外のリゾート地…。変なとこに行かなければ、いつものペルーを、今なら低料金で満喫できること、請け合いだ。


1997年、雑誌「GON!」(ミリオン出版)に掲載。一時期、ペンネームなどを偉そうに使っていた・・・。
※あまりにひどい事実誤認のほかは、当時のままです。書いたときは、大使公邸人質事件の解決前だったが、掲載時には終結していた。又吉光雄は、教会の牧師と名乗っていた。「沖縄に戻ったら、宜野湾市長になり、その後、沖縄知事になる」といっていた。当選しなかったが、市長選と知事選に出馬したことは、風の噂で聞いた。ネットでは「又吉イエス」とか言われていたとかなんとか。


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【写真】リマに光臨したキリスト(沖縄出身)、又吉光雄。
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(墓69)スピリチュアルケアを標榜する診療所

--トータルケアとしての在宅医療の実践(静岡市・たんぽぽ診療所)--

2006年1月に開院した「たんぽぽ診療所」(静岡市駿河区中吉田)。このクリニックの特徴は「在宅」と「スピリチュアルケア」である。同診療所の取り組みをリポートするとともに、「人をしあわせにする医療」を真剣に追求する遠藤博之院長の在宅診療にかける思いを聞いた。


スピリチュアルケアとの出会い


 たんぽぽ診療所・遠藤博之医師(41)の往診に同行した。
 さまざな理由から、医療機関へ行くことができない患者がいる。「自宅で死を迎えたい」という患者もいる。そして患者同様に、心身の危機に直面する患者の家族がいる。遠藤氏の往診は、こういった人たちに、微笑みという名の優しさを配り歩いているようだった。
 遠藤氏の行動から、cliniclownを想起する人もいるかもしれないが、遠藤氏は芸達者ではないし、あくまでも「微笑」であって、爆笑につながる笑いではない。朴訥とした語り口からも、話術の巧みさは特に感じられない。何か特別な行動で笑いを取ることもない。存在自体が微笑みを誘う。まさに「たんぽぽ」の花のイメージだ。
「どんな人に対しても、陽性の気持ちで接したい。人が死ぬことは仕方がないが、人々をしあわせにする医療に携わりたい」と遠藤氏は語り、日々、それを実践している。
 たんぽぽ診療所を開院する前の遠藤氏は、静岡済生会総合病院(静岡市駿河区小鹿)の緩和診療科科長だった。同病院では15年間、勤務した。
 当初は、同病院の腎臓内科に籍を置いていた。専門は透析。そして、透析を受ける患者との交わりや看取りの経験から、病院内に「緩和ケア研究会」を立ち上げた。同研究会を始めた背景には、「苦しみを持つ医療従事者の助けになりたい」との思いがあった。研究会は月に1回のペース。参加者は有志で、病院内で行った。
 遠藤氏はのちに緩和診療科に移り、緩和ケアチームを育てあげた。
「緩和ケアの対象になるのは、身体的・精神的・社会的、そしてスピリチュアルな痛みです。以前、これらの痛みは並列するものだと思っていましたが、身体的・精神的・社会的な痛みは、スピリチュアルな痛みに内包される存在だという説を聞いて、納得したことがあります」と遠藤氏。「スピリチュアル」という用語が意味する範囲は、実際のところ不確定である。遠藤氏は、窪寺俊之氏(関西学院大学神学部教授)の説を踏まえ、「もう頼るものが何もなく、弱り果てた危機的な状況のなかでも、生きる力や希望を見つけ出そうとする機能」と説明する。それは、人によっては霊的なものであったり、宗教的なものであったり、そうでなかったりする。パーソナリティーが十人十色であるように、スピリチュアリティーも人によって違う現れ方をする。
 遠藤氏が目指したものは、スピリチュアリティー全般に対するトータルケアだった。当然、身体的・精神的・社会的な痛みに対するケアも含まれる。
「日本の緩和ケアというと、がんの終末期の疼痛コントロールを連想することが多いのですが、対象を終末期に限定せず、『人が人として過ごしてゆくこと全般』に寄り添いたいと思いました」と、遠藤氏は語る。
「緩和ケア研究会」も「スピリチュアルケア研究会」へと名称変更となったが、遠藤氏が同病院を退職する直前の2005年11月まで計118回、約10年間も続いた。
 また、ある透析の患者を在宅で看取った経験などを通し、「開業するなら在宅医療を行いたい」と考えたという。在宅での素晴らしいスピリチュアルケアは、これまでも数多く報告されている通りである。
 総合病院での15年間の勤務は、遠藤氏のベクトルを「在宅」と「スピリチュアルケア」へと決定的に方向付けたようだ。
 もともと遠藤氏の医師としての出発点は、他の医師とは少し違っていた。国立山梨医科大学(現・山梨大学医学部)の医学生だった当時、哲学を担当するある教員に、非常にかわいがられたという。
「恩師には、『医学する心』や『人として生きていく心』を教えていただきました」
 1989年に大学を卒業。ホスピスが注目されていた時代背景もあり、静岡県浜松市の聖隷三方原病院・ホスピス病棟でも研修を受けた。このほかにも多くの医療施設と診療科で研修を受けたが、そのなかで腎臓内科に出会った。そこでは、死のリスクに直面しながらも、黙々と病院へ通い、透析を受ける患者たちとの出会いが待っていた。
 研修期間が終了すると、静岡済生会病院の腎臓内科へ入局。
 済生会病院ではチーム医療体制をとっているので、主治医を特定しない。ところがどういうわけか、遠藤氏が当番のときに患者が死を迎えることが多かった。これを、遠藤氏は「縁」と呼ぶ。
 さらに「遠藤先生に看取ってもらいたい」と名指しで希望する患者も少なくなかった。遠藤氏を取り巻く死の影は、陰性ではなく、陽性なのだ。そのことを誰よりも実感していたのは、まさに死にゆく患者たちだったのだろう。
 年齢的なことや、周囲からの奨め、さまざまな「縁」などの要素が重なり、昨年12月に静岡済生会総合病院を退職。今年1月、たんぽぽ診療所を開院した。「たんぽぽ」という名称は、星野富弘氏の詩「花に寄せて」からインスパイアを受けた。
 たんぽぽ診療所の開院後も、週に1回、遠藤氏は静岡済生会総合病院での診察を続けている。看護師の人的交流も続く。実際的な病診連携が展開されているのも、たんぽぽ診療所の特徴のひとつである。


たんぽぽ診療所の船出

 スピリチュアルケアを標榜する在宅医療。そしてその「在宅」は、在宅ホスピスや終末期のペインコントロール等に限定せず、守備範囲はもっと広い。また、患者本人だけではなく、その家族をもケアの対象とする――。これが、開院にあたっての遠藤氏のヴィジョンだった。
「クリニック開院を専門にする会計士に相談したところ、ヴィジョンは100点満点の評価を頂いたのですが、『これでは経営が成り立たない。地域診療を担うクリニックとして、経営基盤を固めるように』とアドバイスを受けました」
 経営方針は変更を余儀なくされたが、遠藤氏のヴィジョンは周囲へ波紋を広げた。たとえば、静岡市で調剤薬局のほか、グループホームやデイサービス施設、居宅介護支援事業所などの介護事業を幅広く手がける有限会社アイドラッグ(石川優子社長)が、たんぽぽ診療所の開院に合わせ、いわゆる門前薬局となる「すずらん薬局中吉田店」を開店。常勤の管理薬剤師は、介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格も持つ杉山優香氏を配属した。杉山氏は遠藤氏の往診に毎日同行し、患者や家族の同意を得てから、服薬指導を行う。
「まだ始めたばかりなので、中吉田店については経営的には大変ですが、遠藤先生の在宅医療の方針は正しい。『こんな先生が欲しかった!』という気持ちがあるので、遠藤先生と一緒に頑張っていきたい」(石川社長)。
 また、たんぽぽ診療所の周辺には開業医が少なく、地域にとって「待望のクリニック」でもあった。近所の高齢者は、たんぽぽ診療所の開院を事前に知ると、その喜びを表現するため、診療所にグランドピアノを贈った。足腰の弱い高齢者にとっては、楽に歩いていける診療所は、それほどに嬉しい存在だった。ピアノは現在、待合室横の「たんぽぽルーム」に置かれ、時おり、誰かが弾いている。
 開院を喜んだのは高齢者ばかりではない。同クリニックの診療科目は、内科・緩和ケア・腎臓内科・在宅診療。小児科は標榜科目ではないものの、子どもの患者も自然と訪れるようになった。優しさあふれる遠藤氏は、小児科医に「向いている」のかもしれない。本人も、子どもが好きとのこと。また、遠藤氏の人柄をそのまま体現したような診療所内部の雰囲気は、他の子どもクリニックと比較しても遜色はない。さらに、
「スピリチュアルケアを打ち出しているので、うつ病の患者さんも来ます」(遠藤氏)。まさにオールマイティな診療を行う、開業医の真骨頂といったところか。
「総合病院で働いていたときは、専門分野の文献を一生懸命読んで、最新の医療の提供を心がけていました。ところがいまは、そういうことはしていません。しかしこれはこれで、毎日が楽しい」と遠藤氏。
 総合病院は、イレギュラーなことを排除する。外来受付も、時間が来れば問答無用で終了。待ち時間が長いのは当たり前。検査結果の数値が診療を決定し、服薬も、医師の処方に絶対服従。それを遵守できない患者(家族)にはネガティブな評価が下される。そして「最先端の医療」を提供しない開業医を見下す――。総合病院には、大なり小なり、こういった傾向があるのは否めないだろう。
「でも実際には、患者さんやご家族の都合だとか、治療内容に対する理解度だとか、いろいろなことがあって、完璧にはできないケースもあります。そういった(イレギュラーな)部分に、柔軟に対応するのが開業医です。私自身も、多少はルーズで、人情味があるほうが好きなので」と遠藤氏は語る。さらに、
「当院の看護師は、ある総合病院の出身なのですが、開業医の世界に飛び込んでみて、開業医が地域で果たす役割の大きさに驚いています」という。そして、
「最新の医療が必ずしも人をしあわせにするとは限りません。たとえば、総合病院では高価な新薬を処方しますが、効果がほとんど変わらないのであれば、新薬に比べれば遥かに薬価が低い薬でもいいわけです。国民の医療費を抑えるためにも、こういった選択肢は重要です」と、遠藤氏は考える。
 また、知的障害ではないものの、理解度の低い患者や家族に対しては、間違った服薬をしても大きな問題が出ない処方を心がけているという。
 前出の薬剤師・杉山氏も、「訪問することで、どのように薬を飲んでいるかを把握できます。服薬指導は、『きちんと薬を飲んでいないから、あなたは駄目だ』と批判するためのものではありません」
 相手のテリトリーである家庭に伺い、相手の話をじっくりと聞く。そして、一緒に解決策を考える。杉山氏のスタンスは、遠藤氏のスタンスとズレがない。杉山氏を信頼する患者や家族が多いのも、首肯できる。杉山氏は、迎えられて臨終の場に立ち会うこともある。むろん、保険点数などは付かない行為だ。


患者の家族もケアする往診

 たんぽぽ診療所の診療時間は、月・火・木・金が9:00~12:00/14:30~18:00。現在のところ、水曜日は済生会病院での外来診察のため終日休診。土曜日は9:00~13:00。
 通常の往診は、遠藤氏と杉山氏、看護師の3人でチームを編成する。しかし往診に充てられる時間帯は12:00~14:30のみである。1日の往診軒数は約2~4軒。このほかに、グループホームも1軒往診する。正直なところ、昼食をゆっくり食べる時間はない。
「1軒に対し、平均で1週間に1~2回は往診します。亡くなりそうな患者さんの場合は、日曜日も含め、毎日伺います」と、遠藤氏の往診頻度は高い。
 むろん、ある一線以上はボランティアになる。杉山氏の場合も同様で、在宅での服薬指導は、患者が要介護の場合は介護保険の適用になるが、そうではない場合、介護保険での点数は付かない。
 通常は、たんぽぽ診療所と連絡を取り合って、処方箋は訪問前に書き、必要な薬を携行する。
「でも、実際にお宅へ伺うと『あれがない』とか『間違えて飲みすぎてしまった』など、いろいろなことが起こってるんです」(杉山氏)
 そういう時は処方を追加したりして、その日の夕方、杉山氏かたんぽぽ診療所のスタッフが届けることもある。
 なお遠藤氏は、診察代を払えない人からはお金をもらっていない。
 往診範囲は特に決めていないが、診療所および遠藤氏の自宅から車で数分で行けるところが望ましいという。かなり遠方の患者が往診を依頼したこともあるが、「何かの緊急事態が起こったときには対処できない」と申し添えたところ、依頼は取り下げられた。
 遠藤氏が担当する在宅の患者の疾病別の比率は、腹膜透析の患者が50%、がん終末期の患者が40%、脳卒中等で寝たきりとなった患者が10%。
 記者が同行した日の往診では、3人(2軒)の患者を診察した。


【Aさん】大正生まれの女性。既往症は糖尿病、慢性腎不全、慢性心不全。2005年冬、心不全が悪化し総合病院へ入院。一時、人工呼吸器を装着。腹膜透析を始めることで危機的状況から脱却し、呼吸器もはずれ、病状の安定を待って自宅療養となった。現在は腹膜透析、インスリンの注射を自宅で継続中。
【往診風景】いわゆる寝たきりの状態だが、ユーモラスで非常にかくしゃくとしたおばあさんである。遠藤氏との会話も淀みない。診察を受けながら、家族のことや庭のサクラの木のことなどを遠藤氏等と談笑。往診について尋ねると、
「遠藤先生にはとてもよくしてもらっている」と、真顔で答えていた。
 たんぽぽ診療所の往診時に、たまたま訪問看護ステーションの看護師が居合わせ、遠藤氏の診察をサポートする。業種や組織を超えて、自然とそういった協力体制が確立されているようだ。
 往診時間は約30分。
【BさんとCさん】ともに昭和初期生まれの夫婦。Bさん(夫)は脳梗塞にて日常生活が不自由。また前立腺肥大にて排尿困難なため膀胱カテーテル留置中であるが抜管を検討中。総合病院よりの退院にあたり、遠藤氏が往診フォローをしている。往診中にCさん(夫人)の高血圧も見つかり、これも治療中。Cさんは弱視も疑われる。夫婦の服薬管理はCさんが担当しているが、Bさんのケアマネージャーが「飲み間違い」の可能性を指摘。
【往診風景】二人で合計約30分の往診だった。Bさんと同じくらいの時間をかけてCさんの診察をする。Cさんは血圧も高く、体調が悪い。また、前出のケアマネージャーによると、Bさんの在宅療養が始まってから、Cさんはほとんど外出ができないという。
 遠藤氏は血圧を測りながら、Cさんから食事内容などを聞き出し、やんわりとしたアドバイスを送る。ふいにCさんが冗談をいう(普段は、遠藤氏に冗談など言わない人らしい)。そうやって打ち解けていくのが傍目にもよく分かった。杉山氏は、薬をどうやったら飲めるか、ということについてCさんとあれこれ打ち合わせた。
* * *

 遠藤氏の念頭には「家族のケアを誰がするのか?」という問いが常にある。
「死期が迫っている患者さんの場合、往診で必要とされるエネルギーを100とするなら、50%はご家族のため、残り50%は患者さんのために使う」という。
 また、患者が亡くなってからは、遺族のためのグリーフケアにも携わっている。
「終末期ではない患者さんの場合でも、10~20%のエネルギーは、ご家族のために使いたいのです」
 開院から間がないためか、遠藤氏は精力的に活動している。静岡済生会総合病院で行ってきたスピリチュアルケア研究会も、「たんぽぽの会」という名称で継続中だ。今回は、一般にも門戸を開放し、第1回「たんぽぽの会」は他施設の医療スタッフをはじめ、大勢の参加を得て盛況だった。
 また、居宅療養管理指導実施施設の指定を受けたため、24時間体制である。ところが、医師や看護師を増やすための財政的な余裕がない。
「僕にも突発的な事態が起こる可能性もあるし、家族との時間も大切にしたい。今後は、そのあたりをどうしていくかが課題」と遠藤氏。他の開業医との連携を視野に入れながら、遠藤氏をはじめとする「たんぽぽチーム」は、日々、往診を続けている。

[Home Care MEDICINE2006年夏号:Frontier Report ]


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●リンク先
たんぽぽ診療所すずらん薬局(別ウィンドウで開きます)

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(墓68)「裏」外国人葬儀屋の掟

 バブル経済の底辺の一角を支えたのは、イラン人やタイ人、バングラデシュ人、中国人などの外国からの労働者だった。だが、日本政府は彼らに正規の労働ヴィザ(入国査証)を与えなかったが、不法滞在は黙認した。
 しかし、バブルが弾けた。
 とたんに、出稼ぎガイジンへの締め付けは強くなった。
 じつは多くのガイジンは、まじめに働いていた。故郷の家族に仕送りをするためだ。
 なかには粗食に耐えながら3重労働に出かける人もいた。過労死もまれではなかった。ここで、大きな問題が発生する。
 たとえば、イスラムは火葬を禁止しているけれど、土葬OKの墓地というのは、田舎に少しあるだけ。だが、そんな墓地に不法滞在のガイジンが埋葬されることはないし、皆、故郷での埋葬を望んだ。
 イスラムの葬儀を一手に引き受ける葬儀屋が誕生した。仮にA氏とする。
 A氏は、日本で死亡した外国人の遺体を本国へ運ぶ熟練のエージェントだった。
 遺体を外国へ運び出すためには、その死人の国の在日公館(大使館や領事館)に遺体移送の許可証を発行してもらい、骨の状態でないならば、遺体は「エンバーミング」と呼ばれる防腐処理をしなければ、飛行機には乗せてもらえない。乗せるといっても、コンテナに入れて空輸するのだ。
 今でこそ、日本人のエンバーマーは何人もいるのだが、当時は、ほとんどいなかった。
 A氏は在日の某国軍隊に特別のコネがあり、基地内などで特別にエンバーミングをやってもらえた、という。
「最も多いときは月に5件のイスラム葬儀を行ったが、最近は少ない」というA氏。
 料金は、一件に付き数百万円だった。この料金に含まれるのは、エンバーミングと本国への遺体移送、在日公館や航空会社に対するコーディネート料。葬儀のセレモニー代は含まれないし、日本で葬儀をあげる人自体が少なかった。
 現在、A氏がどんな仕事をメインにしているかは分からない。ある意味、彼もバブルに踊らされたのだ。そしてA氏によって本国へ送られていった死者たち。彼らを死に追いやったのもまた、バブルだった。
[漫画実話ナックルズ2006年8月号]

<注>もとは「死の値段」という記事を『GOKUH』に書いた。その後、『SOGI』誌に関わるようになり、まっとうな葬儀社への取材がメインになった。しかし、A氏のような人物(葬儀社)は、いまもたくさん、存在する。

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(墓67)日本を救うテクノロジー、そしてデカセギの未来~日本の製紙業を例に~

●製造業の危機とデカセギの危機

日本で働く少なからぬデカセギが危惧しているように、日本の工場は、次々と閉鎖を余儀なくされている。なぜかというと、製造業における単純工程が、労働力の安い中国やフィリピン、東欧などに大量に流出しているからである。なかでも中国は、外国資本の工場(その多くが先端技術を有する)を受け入れると、最新技術のノウハウを自国に吸収したうえで、用済みとなった外資系企業を追い出す段階にまで来ているといわれる。今後は、彼らが望むとおりの経済的超大国になるのだろうか? もしそうなれば、デカセギを受け入れる余力は、日本からは失われるだろう。

さらに、入管の取締りが厳しくなったとはいえ、日本国内の不法滞在者が、合法的な外国人デカセギの生活と職を脅かし続けている。不法滞在者は、給料が安くても働くといわれている。ところが、(しばしば家族同伴で)稼ぐことを至上目的として来日するデカセギたちは、安い給料ではとうてい働けない。

瞥見すれば、日本の製造業とデカセギは、ともに危機的状況にあるといえるようだ。


●製造業の反撃

先日、ある英字新聞の取材で、紙の品質検査機メーカーでは世界でもトップの「Lorentzen & Wettre」社(本社:スウェーデン)の2003年にスタートした日本支社(静岡県富士市)を取材した。富士市といえば、世界有数の製紙メーカーの伝統的な産業集積地(City of Industrial Clusters)。ここでは日本の製紙シェアの13%を生産する。これは、世界全体では5%程度のシェアといわれる。たった5%ではあるが、限定された地域にこれだけの製紙産業が集積するのは珍しい。

紙というと、私達がすぐに想像するのは、わら半紙(もしくは新聞用紙)、コピー用紙、トイレットペーパー、上質紙etcであるが、これらはもはや日本ではほとんど製造していないような気がする。実際、ここ数年で国産のコピー用紙はまったくといっていいほど見かけなくなった。多くは、インドネシア産だ。こういった「単純紙」の国内生産は、年率で2~3割も減産されているそうで、近い将来、リサイクルペーパーなどの一部の例外をのぞき、日本ではまったく作られなくなるだろう。

そのような逆境のなか、なぜLorentzen & Wettre社は日本に進出してきたのだろうか? その背景には、静岡県の外資誘致のための優遇措置もあるだろう。1986年に始まった例のGATT ウルグアイ・ラウンド以降、日本の工業界にはISOの国際工業スタンダード導入が進んだ。紙の品質測定機でも従来のJIS(日本工業規格)からISOへの転換が迫られたため、ISOに強い影響力を有するLorentzen & Wettre検査機の日本市場における明るい展望も、彼らの日本進出の要因として挙げられるだろう。しかし、実際には「日本の製紙業界は新技術の開発で絶好調」なのだ。

単純紙のシェアは、諸外国が独占した。しかし、日本には発展を続ける高い技術力がある。たとえば、携帯電話を軽量化・小型化させた主役も、なんと紙である。具体的な商品名は王子製紙が開発した「アラミドペーパー」だ。これは、高速演算処理を目的とした低誘電率基盤のための新積層板原紙。精密機械内部といえども、これまでの基盤は堅いボードに無数のマイクロチップを埋め込んで半田付けしたものだった。そんな大掛かりな「装置」を一枚の紙で代用することができるのだ。このカミは、機械の内部で折り曲げて収納することもできる。

さらに、家庭用のマット紙。家庭の安いインクジェット・プリンターで、紙焼きした写真や業務用のレーザー・プリンターと遜色ない出来栄えの印刷が可能になり、日本ではもはや当たり前になっている。マット紙は、日本の各メーカーが世界のシェアのほとんどを独占している。単純紙では大幅な落ち込みが続くが、付加価値の高い特殊紙ではそれをカバーして余りある高成長を遂げているのが現状である。ここで誰しもが考えることは、「では中国などが積層板原紙やマット紙などの特殊紙で日本の技術に追いついたら?」。しかし、これも多くの人が可能性として考えるのは「その頃には、さらに新しい技術を日本人は考えるはずだ」。少なくとも、メーカーの技術人たちは、日本の技術の終わることのない飛躍を信じているに違いない。個人的には、日本の技術力はそれほど限りない発展を続けるとは思えないのだが。


● デカセギの「苦難」は「転機」か

今後、生き残っていく日本の工場ではますます技術の高度化が進んでいくということになる。もちろん、産業・業態によっては、高度化が緩慢に進む場合もあるだろうが、比較的単純な作業だけでいい、という工場は、長期的には海外に移転していかざるを得なくなる。そんな未来に対応するためには、デカセギたちは、高度な日本語力を習得するか専門的で特殊な作業経験を積むか、他業種への就職を本気で模索していく時期にそろそろ来ているのではないだろうか。人によっては、在日デカセギにとっての苦境と思うかもしれないが、転機ともいえる。たとえば、ペルーに渡航した初期の一世たちが労働契約を結んだのは、耕地だった。当時は、耕地で生産される砂糖が、ペルーの代表的な輸出産業であり、先端産業だった。日本人の農業移民の都市進出と商業移民化は、砂糖産業の零落と決して無縁ではない。耕地の労働が厳しかったから皆が逃げ出した、というように単純に考えることは、ある部分では妥当ではないと思う(それは後世、半分くらい脚色されたストーリーだ)。

かつてのペルーの耕地を、現在の日本の工場に置き換えて考えてみることはできないだろうか。「日本で商売するのは困難」だと多くのデカセギがいう。たぶん、そのとおりだろう。厳密に言えば、在留資格の規制にも抵触する。さらに、顧客となる日本人のメンタリティは、デカセギからみれば特殊、ということにもなろう。ということは裏を返せば、日本にいるペルー人「だからこそ」活躍できる分野がある、ということになるのである。
【2004年、ペルーの雑誌に寄稿した原稿の日本語の原文】

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(墓66)余所者の血祭り/アブシバライ

見知らぬ集落を自分の足で旅するとき、ふいに恐怖に襲われる。心霊関係じゃない。土地の人だ。この国には、訪問者を神にあがめるマレビト信仰があった反面、余所者をなぶり殺す風習もあった。貧困がそうさせた。ケガレを運ぶ者への忌避もあった。「村人に惨殺された落ち武者」、である。

旧暦4月中旬に行われたアブシバライでも、他郷の者が“犠牲”になっていたのかもしれない。
アブシとは沖縄や奄美、山口などでいう畦(あぜ)のこと。漢字は「畦祓」。祓え神事だ。沖縄ではかつて、この日に村中の男女全員が浜に出、一日遊んで暮らした。本来は害蟲駆除の呪法だった。畦で祓いをするわけだ。ところが後世、「磯遊び」と一体化していく。

磯遊びは、春先に全国で行われていた年中行事。原初は物見遊山ではなく、「家にいるのが危険な日」だったために、食料を持って浜に避難した。家にいるのが危険というのは、この日に神がやってくるから。いい神様だろうが悪い神様だろうが、神が移動するさい、人は息を殺して慎むというのが古来の姿だった。畏れであり、物忌み。信仰心が薄れると、集団で遊ぶ面白さが突出する。明治以前に禁止されたが、京都市左京区大原の産土江文(うぶすなえぶみ)神社で行われた「大原雑魚寝」のような行事になる。これは節分の夜に、村民が拝殿やその付近の暗闇の中で、男女の分かちなく夜を明かす風習で、実態は乱交の極地だったらしい。

アブシバライの凄いところは、害蟲を演じる者がいたことである。村では誰かひとりの男を洞窟などに閉じ込めて一日中、食事はもちろん、一滴の水も与えなかった。害蟲が餓死する様子を「予行」したわけだ。予行や予言、予祝は現実を引き寄せる。大昔は村の掟で誰かを指名したが、のちには金で雇った。通りすがりの旅人に“頼んだ”ことも想像に難くない。

かたや酒宴、かたや餓える男。一方では性、一方では暴力。日本の祭りは正邪が同居する。
〔ミリオン出版『漫画実話ナックルズ』2004年掲載〕
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(墓65)ペルーのアナゴに想いを託す

ペルーのアナゴに想いを託す
日本の食卓を支える名もなき男たち



 海洋深層水の湧昇域であり、寒流と暖流が交叉するペルーの豊かな海。カタクチイワシ(アンチョベータ)漁は有名で、ペルーは一時、世界第1位の水揚げを誇った。そのほとんどが飼料・肥料用のフィッシュミールに加工され、日本にも輸出される。
 最近では、ペルー産のイカが日本の食卓に並ぶ。ペルーのマグロやカツオなども輸入されて久しい。そして現在、ペルー産のアナゴがじわじわとシェアを伸ばしているという。実際、スーパーで「ペルーのアナゴ」に出会えることも珍しくない。味も日本産のアナゴに近く、上質である。
 旅客機に乗っても20時間以上を要する遠方の国から、いったいどのような経緯で、日本人の好きな「穴子」が輸入されるまでになったのだろうか?

川田武二+ペルー=アナゴ対日輸出

 ペルー産アナゴ。対日輸出の先鞭をつけたのは、マルハ系の現地法人SAKANA DEL PERU【サカナ・デル・ペルー】株式会社。川田武二さん(64。2004年末当時)は、その責任者だ。
 この人がいなかったら、ペルー産のアナゴが日本へ供給されることもなかったし、そもそもペルーでは、アナゴは「埋もれた」ままだったろう。現地では「気味悪い生き物」として、まったく見向きもされない魚だったのだから。
 川田さんが初めてペルーへ赴任したのは1967年、26歳のときだった。国連職員を夢見て、貿易関係の仕事をしていた彼は、たまたま知人から「ペルーの捕鯨基地で働かないか?」という誘いを受け、ペルーへ。魚の専門家でもなかったし、南米に特別な感情を抱いていたわけでもなかった。
 85年に商業捕鯨のモラトリアムが発動。数百人規模のスタッフの解雇や工場の整理に追われた。そして生き残りを賭けて、
「メルルーサやカニ、貝など、いろいろ試したんですが、日本向けの質・量を満足させるものがありませんでした」と、川田さんは振り返る。口にはしないが、その数年間の苦労が表情に浮かぶ。
 そして90年代初頭、ついにアナゴにチャレンジすることになった。
「アナゴがいることは分かっていました。桟橋で釣りをすると、よく掛かるんです。でも、漁民にものすごく嫌われてましたね。グニャグニャしていて。誰も食べませんでしたよ。そんなものが外貨を獲得するなんて、ひとりも思わなかったでしょう」
 スペイン語を公用語とするペルーでは、アナゴはanguila【アンギーラ】と呼ばれる。沿岸には約5種類のアンギーラが棲んでいるという。
「アナゴは多くの国で捕れるのですが、種類が少しずつ違います。骨が多かったり。調べてみると、日本のアナゴ(の食感)に近い種類がペルーにもいることが分かりました。この種が、資源量も一番多いようです」
 まずは、漁師と工場スタッフの教育から着手した。誰も捕ったことがなく、フィレ(三枚)におろすといっても、経験がないからだ。
 漁場は、赤道に近いペルー北部のパイタ周辺。捕鯨基地が、パイタにあったためだ。漁船は20トン級の小型のものを使い、四万十川のウナギ漁で使われる「ころばし」のような筒状の罠を海底に沈める(写真参照)。アナゴは、この筒に入ることはできても、出ることはできない。そして、アナゴを生きたまま罠ごと引き揚げていく。
「アナゴは、フィレにするときまで生きていないと駄目なんです」
 以前はパイタで水揚げをおこない、そのままアナゴを工場に運んだが、現在は漁場がパラチケという場所に移動した。工場のあるパイタまでは車で2時間。そこで、水揚げ後すぐにパラチケの港でフィレに捌き、捌いた身をパイタの工場に運び、冷凍と箱詰め、日本への出荷をおこなっている(パイタから直接、船便で日本へ)。
 スタッフには、骨抜きと血抜きもいちから教えなければならなかった。日本や韓国へスタッフを派遣して、工場を見学したりもした。とくに、捌き方を教えるのに時間がかかったという。しかし、
「ペルーの人は真面目で手先が器用です。いまでは、機械で捌くより速いほど、皆熟練しています」
 10年を超える経験によって、漁師たちも達人の域に近づいたようだ。気候に合わせて、アナゴも居場所を変えるのだが、漁師はそのポイントを的確に探し当てるという。
 当初は年間500トンほどで始めた日本への輸出も、いまでは年間1000~1200トンに。日本近海でアナゴの漁獲量が減り始めたことや、回転寿司にアナゴが導入され、需要のすそ野が広がったことも追い風になった。

「いまさら、日本へは帰れない」

 SAKANA DEL PERU社の成功を受け、ペルーや韓国資本の企業も、アナゴ漁と輸出を始めた。そこで、アナゴの資源量に懸念を表明する声が、ペルーでも出始めている。
 もし仮に、ペルーの水産当局による資源管理が開始された場合、せっかくここまで市場が広がったペルー産アナゴには逆風となる。だが彼は、コントロールには「賛成」だという。一時的な制限が加わったとしても、
「長い目で見れば、われわれ水産関係者にとっては、資源が持続してくれたほうがありがたい」から。
 川田さんは、アナゴの輸出を軌道に乗せるため奮闘を続けた。そしてそれは、軌道に乗った。工場では約300人が働き、自社船は4隻。このほか、10隻の船からの買い付けもおこなう。つまり、雑魚同然だったアンギーラという「眠れる鉱脈」を発掘したのだ。そして、良質のたんぱく質の供給源を、日本人に確保した功績も大きいといえる。安定した雇用を創出した点も、ペルーにおいては高く評価される。だが、
「長い間こっちで暮らしているうちに、私は、日本では通用しなくなった」
 日本の会社文化から遠ざかって、ペルーで会社を切り盛りしているあいだに、日本での“人とのつながり”は、いつしか消えていた。
 初めて赴任したときは、「汚ねえところ」としか感じられなかったペルーだったが、それからすでに約40年の歳月が流れた。
「毎年、業務の相談やらで日本へ行きますが、ペルーに帰ってくると、ほっとするんですよ」
 57歳で定年退職した。その後は単年契約を繰り返し、“健康が許す限り”働くつもりだ。同社の社員14人のうち、日本人は川田さんだけ。後任の日本人社員は、なかなか来ない。

安全かつ美味しいペルーの「穴子」

 ペルー人は魚を常食してきた。煮付けにもするが、多くの家庭ではフライがもっとも普通の調理法だ。生食もする。その料理の名は、ペルー風マリネ「セビチェ」。タイやヒラメなどの切り身とレッドオニオンをレモンの絞り汁で合え、ニンニクと辛子、香草、岩塩で味を調える。ペルーを代表する名物料理のひとつだ。
 ペルーでは白身の魚が好まれるため、アナゴの需要もありそうだが、
「ペルー人は鱗のない魚を食べません」というのは、リマ市内の日本食レストラン「ICHIBAN」のオーナーであり、料理人でもある中川博康さん。
 日本食レストランのペルー人客や、川田さんの会社のスタッフなどがアナゴを食べる「通な人たち」だ。川田さんは、中川さんの要請を受けて、ICHIBANにアナゴを卸している。
 川田さんと一緒にICHIBANへ行った。
 穴子柳川もうまかったが、川田さん絶賛の穴子唐揚げは、日本の料亭にもひけを取らない。深い味わいである。
 江戸前が尊重されてきたアナゴ。ペルー産が日本で流通する最大の理由は安さにあるようだが、日本近海の海底に沈殿するダイオキシンによる汚染が心配される現在、清浄な深層水と外洋の海水に育まれたペルー産アナゴは、味と安全性の面からも、もっと評価されていいだろう。

写真=工場でアナゴをさばく同社のスタッフ。
水の文化情報誌『FRONT』2004年12月号掲載
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(墓64)日本の発酵技術が世界を救う

●発酵産業が支えるバイオテクノロジー
 ヨーグルトや納豆、味噌、酒造りに欠かせない発酵技術は、いまやさまざまな産業に応用され、その市場規模は数十兆円にもなるという。これらが、高付加価値型の新産業群として注目される現代型のバイオ産業だ(このうち、発酵食品の占める割合は2割にも満たない)。日本のモバイル関連市場は2005年で約7兆円規模だから、発酵産業の規模の大きさは凄まじいの一言に尽きる。
 2006年現在、首相官邸で「バイオテクノロジー戦略会議」が開かれていることからも分かるように、今後のバイオ産業のあり方次第で、日本の国際競争力は大きく左右される。しかし、バイオ産業の基礎には、従来型の発酵産業という「大いなる遺産」があった。麹菌のゲノム解析という快挙も、やはり長年培われてきた日本の発酵産業の伝統抜きには語れない。
 2005年12月、独立行政法人産業技術総合研究所(つくば市/略称「産総研)の生命情報科学研究センター(数理モデルチーム)では、他研究機関や企業との協力によって、世界で初めて麹菌のゲノム塩基配列の解析に成功した。
 これによって、日本古来の麹菌(学名:Aspergillus oryzae。カビの一種)の高い発酵能力と安全性が科学的に実証された。納豆、味噌、酒造りの主役である麹菌は「国菌」とも呼ばれ、長年、日本人の暮らしと密接にかかわってきた。
 さて、産総研それによると、麹菌ゲノムは約3800万塩基対からなり、約1万2000の遺伝子をもつ。このゲノムサイズと遺伝子数は、微生物の中ではきわめて大きい。そして、加水分解酵素遺伝子などの分解などに関る遺伝子を、近縁のカビよりも30%程度多くもつことも明らかになった。
 ゲノムが解析されたことによって、バイオ産業での麹菌の広範な利用が加速すると見られる。また、麹菌の近縁種には麹菌とは異なり、感染性や穀物汚染などの原因となるカビも存在する。今回の研究成果により、これら問題菌の抑制や問題の予防研究に拍車がかかるものとみられる。

●人類と自然界の媒介
 発酵に関係するバイオ産業で、もっとも規模が大きいものが医薬品や化学製品の分野。このうち、ダイエットや美容関連での飛躍が目覚しいのがアミノ酸や核酸だ。抗生物質や抗がん剤、ステロイドなどのホルモン製剤なども発酵によって作られる。次に大きな市場が酵素産業。用途は医薬用、化学工業用、食糧工業用、研究用などと多岐にわたる。
 じつは、発酵のもつ大いなるポテンシャルは、こういった既成産業からの脱却が図れる、という点にある。つまり、化石燃料を消費し、再利用しにくいゴミ(廃棄物)を生み出す消費社会から持続可能な社会への転換だ。
 すでに実用化されているものとしては、発酵法による工場廃水の浄化が挙げられる。工場廃水に含まれる有機物を微生物によって分解(発酵)させることで、河川の汚染を防ぐというものだ。
 生ゴミの堆肥化も、発酵の力による。全国の焼却施設は法律によってダイオキシンクリア焼却炉(高温度焼却炉)と定められているが、建設費は大型の施設では数百億円もかかる。ところが、生ゴミを堆肥化することで処理できれば、その費用は驚くほど少ない。家庭レベルではほとんど無料。プラントを作っても、建設費および使用エネルギー量は焼却炉とは比較にならない。なによりゴミ処理に化石燃料を使わず、ダイオキシンを生まず、焼却灰も出ない上、堆肥が次の収穫へとつながるというメリットは大きい。
 発酵時に放出される熱を他の用途へと転用もできる。「酵素風呂」というアミューズメント施設の原理は、発酵と同じである。
 現在では、電子部品や自動車のパーツとしても応用できるまでに高機能化された生分解性プラスチック(ポリ乳酸系生分解性プラスチックなど)は、澱粉を多く含む食物(トウモロコシやジャガイモなど)を乳酸発酵させて作る。さらに、食用植物の可食部を使わずに、農業廃棄物(稲や麦のワラなど)でも代用は可能とされる。
 生物循環の輪から外れた人類を、よりよい形で元の輪のなかに戻す媒介が、発酵なのかもしれない。(太田宏人)
水の文化情報誌『FRONT』 2006年3月号掲載
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(墓63)ペルーに散在する日本人慰霊塔~移民の聖地が語りかけるもの~

 先人を祀る想ひは、遠い異国にあっても変はらない。むしろ、本国での安穏とした日々を送る者にはない至誠が発露された。生者が死者を悼み、現在の生を感謝する純粋な心情である。
 南米ペルー。この国にも、日本人移民の先没者を祀る慰霊塔や日本人墓地が散在する。
 ペルー移民は、明治三二年(一八九九)に南米で初めて開始された。日本人は、大規模なプランテーション(耕地)での単純労働者として雇ひ入れられた。だが、過酷な労働と伝染病により、多くの移民が絶命した。医療機関の不備、言葉の問題、栄養不良などで、幼児の早世も珍しくなかった。だからどこの耕地でも、片隅には日本人の埋葬地が作られた。
 もはや、これらの埋葬地は散逸し、あるものは農地や宅地に、あるものは砂に埋もれた。日本人が多かった地方では、埋葬地が整理され、「日本人墓地」や「慰霊塔」が建設された。その嚆矢が、太平洋岸のサン・ハシント耕地に昭和元年(一九二六)に完成した日本人慰霊塔だ(現在は台座だけ残存)。

移民の聖地

 ペルーには、神社はない。一世移民や二世以降の日系人が共有する唯一の宗教施設は、リマ州南部に存在する「泰平山慈恩寺」である。この寺院は、曹洞宗の上野泰庵師が明治四〇年(一九〇七)、もしくは翌年に開山した南米大陸で最古の日本仏教の寺院だ。
 上野師以来、曹洞宗派遣の布教師が歴代住職を務めたが、在留邦人には宗旨や教義へのこだはりはまったくなく、まさに「超宗派」「超宗教」として、多くの人々に支へられてきた。宗教・宗派を超え、誰でも参詣できる慰霊施設であるが、「先没者を祀る」といふ強烈な宗教心に裏打ちされてゐる。
 慈恩寺から数㌔離れたカサ・ブランカ日本人墓地(昭和七年完成)には、七メートルを超す「無縁塔」(納骨慰霊塔)がそびえる。慈恩寺とカサ・ブランカの慰霊塔は、戦前から「移民の聖地」と呼ばれ、現在でも日系人の墓参が絶えない。ほかの慰霊施設とは別格の扱ひを受けてきた。
 “移民の聖地”には、全国の埋葬地から集められた人骨や土が合祀されてゐるが、参拝する日系人はそんな事実は知らないやうだ。だが彼等は、自らの血縁を超え、「先没者たち」といふべき大きな存在すべてに、生者として語りかけるのである。完全にカトリック化した日系人が焼香し、祈る姿に、一種独得の「先祖との交歓」が見える。

慰霊施設の未来

 慈恩寺とカサ・ブランカなどの若干の例をのぞき、多くの慰霊施設は存続の危機にさらされてゐる。
 日系人の日本への出稼ぎ、地方の日系社会の過疎化と崩壊、若い世代と旧世代の断絶、日本語が分からないスペイン語世代への情報提供の極端な欠如などのマイナス要因が重なり、ペルー全国の四つの日本人墓地、一四の慰霊塔、寺院および位牌堂への関心は、年々低下してゐるのが現状である。完全に見捨てられたものもある。
 リマ州北部のサン・ニコラス日本人墓地(昭和一〇年完成)の墓碑銘は、かう結ぶ。
「当国に生をうけ同じ血の流れる後続の諸氏よ、願くはこの霊地を永久に守られん事を」
 このメッセージは、日本に生きる日本人にも、重要な何かを訴へる。

(おほた・ひろひと/フリーライター。國學院大学神道学科卒。ペルーの日本語新聞『ペルー新報』元編集長)

【写真1】カサ・ブランカ無縁塔の序幕式(昭和7年8月15日)。その後倒壊したが、再建されてゐる
【写真2】ペルー鹿児島県人会によるパラモンガ日本人墓地(リマ州北部)への墓参(平成12年)。

「神社新報」2003年9月掲載原稿に一部加筆
神社新報は「歴史的仮名遣ひ」で表記してゐる

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(墓62)ペルーのオタク

世界 OTAKU 拝見!~ペルー編~
OTAKUは世界の共通語


OTAKU。それは、世界に勢力を伸ばす熱い人びと。そして、現象。たとえてみれば、グローバル化する国際社会を駆け抜ける粘っこい呪文。その勢力はすでに、インカの末裔が息づく南米・ペルーの大地にも上陸、多くの人々がオタクを名乗るようになったという。ナスカの地上絵に「あれ」な絵が加わる日も近いというのか? コモエスタ、オタク? ペルーのオタクをレポートしよう。
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そこには、セーラー●ーンの衣装を着けた女の子たちがいた。その短いスカートからプニッ! と露出した脚は、むちむちで褐色だ。濃い顔。飛び交う言葉はスペイン語。でも、カラオケ(アニメソング)はニホンゴだったりする不思議な人たち。ここは、南米ペルー。“オタク大会”では見なれた光景だ。
 彼らは、日本のアニメ・オタクと同じ「体臭」を持ち、本家と同様、社会的な「見え」など気にしない。純粋に日本のアニメを愛し尽くし、自分たちのコミュニティーのなかで盛り上がる。登場人物への感情移入こそリアルな生きがい! だ。
 彼らは、OTAKUと自称する。「オタク」なる日本語に相当するスペイン語(ペルーの国語)がないのだ。ちなみに「サッカー・オタク」なんていうのはいない。OTAKUはアニメの世界に限られるコトバなのだ。
 ペルーにもアニメ・ファンはいる。テレビの地上波ではかつて、リボンの騎士、鉄人28号、ガッチャマンなんかが有名だった。古いこと=過去のもの、ではないのが途上国。最近も、キャンディ・キャンディがブームになった。ご多聞にもれず、ポケモンは子どもたちにムーチョ(とっても)人気だ。
 だが、「オタク」は「ファン」とは質が違う。日本から速攻でビデオを取り寄せ、当時、ペルーの地上波では放送されていなかったエヴァンゲリオンを同時進行で観る熱さと収集欲は、比類がない。

Sugoiクラブの「凄さ」

 オタク・ブレイクのきっかけは、97年に設立されたClub Sugoi(すごいクラブ)だった。会長のイヴァン・アンテサナ(37)さんによると、「潜在的なオタクはたくさんいたけど、素材が入ってこないし、ボクらが集まる場所もなかった」。濡れ手市場だった。そこに参入した。そして、火がついた。前世紀末、ペルーにもインターネットが普及したことで、素材入手も楽に。スキャナーとDTP&編集ソフトを駆使して機関誌や同人誌、スペイン語字幕付ビデオが作られ出した。これ、ほとんどが確信犯的海賊行為。二次加工されたものばかり。ペルーにも著作権法はあるのだが…。
 Sugoiの会員は、首都圏のリマに3000人以上、地方に500人以上で、年齢は10代~30代。毎月2冊の有料機関誌『Sugoi』と『Masaka』を発行し、会員に郵送している。
機関誌は市販もされている。アンテサナさんによると、リマだけで5000は軽く超える人たちがオタク雑誌の愛読者だ。リマの人口は700万人ほどだから、すごく多い数だ。
 1年に数回、Sugoiでは映画館を借り切って集会を行う。コスプレはもちろん、アニメソングのカラオケ大会も人気だ。ただ、日本のオタクは水木一郎(マジンガーZの歌の人)を頂点(?)とする懐かし系を愛するようだが、ペルー人オタクの好みは最近の曲だ。日本から取り寄せたビデオにスペイン語字幕をつけ、上映会も開く。グッズや書籍を売るオフィシャル・ショップもある。Sugoiの幹部や店員は「これでご飯食べてます」。Sugoiは株式会社だ。
 機関誌の内容は作品紹介や解説、声優ピックアップなど、まさにペルー版『アニメージュ』。「アニメを通して日本文化や日本語を学ぼう」というベタなページもある。実際、日本の不況によってデカセギ希望者が減ってからというもの、ガタッと受講生が減っていた多くの日本語学校にオタクが殺到している。日本の外務省がいまも外国で垂れ流す「芸者フジヤマ先進工業」なるプロパガンダのような「日本」ではなく、たしかにある意味、彼らはダイレクトに「日本」を感じ、「日本」とつながっている、みたいだ。
 エロなオタクは、健全なグループからはHENTAI(変態)と賎称されているが、エロ系同人誌(ほとんどが海賊版)の需要も多い。もちろん、両方のグループに身を置く人も少なくない。じつにみなさん、オタクであることを健全に楽しんでいらっしゃる、としか言いようがない。「こんな腐れた国で生きていけるのか?」と心配してしまうほど純粋だ。
 しかし、彼らと話をしていると、どこか違うところを見ているような態度、とか、じつは現実とあまり接点のない話題、とか、アニメのワン・シンーンのような空虚な話し方や対応、とか、仲間内でのヒソヒソ話的で濃厚な盛り上がり…といった特殊性が目に付く。
 これって、世界各国のオタクに普遍的な挙動らしい。日本のアニメが、そんな“パーソナリティ”を造ったのだろうか。
 月刊『Sugoi』は約US6ドル。ペルーでなら小さなフランスパンが200個も買える金額だから、決して安くはない。
 このクラブの会員がみな裕福とは思わない。けれど、外の世界には貧困や治安の悪さといった発展途上国の凄まじさが嵐のように荒れ狂っている一方、彼らの世界のなかには、まったく別の空気が漂っているようだ。外界のリアルさが日本とは比べられないくらい劇的だからこそ、それと隣り合わせの壁で仕切られた小さな世界のなかで、能天気なジャパニメが愉しまれていることが、妙に現実感のないことのように思えるのかもしれない。

(1)「MASAKA」「SUGOI」に関するキャプション
『Sugoi』と『Masaka』。雑誌タイトルの意味は、すんばらしい!!(スゴイ)、こりゃたまらん!!(マサカ)的なニュアンスらしい。
(2) 同人誌「Tenkaichi」に関するキャプション
正真正銘のペルー版まんが同人誌「Tenkaichi」は『Masaka』の付録。海賊作品は、少ない。
(3)コスプレイヤーに関するキャプション
感情移入が昂じれば、当然コスプレでしょう!! 人類に共通する衝動かも。99年、ペルーでNHKの「のど自慢」が開かれたとき、彼らは大挙して予選に出場。これらの衣装を着けて情感込めて熱唱したが、全員落選してしまった。

コラム(1)
ペルーに現れたカリスマ作家! サンドロ・アリアス氏
この作品の作者はサンドロ・アリアス(31)氏。やはり、オタク。「描き始めたのは数年前だよ。こういうの好きだったからね。でも描きかたが見当つかなかったから、なぞったりした」というアリアスさんだが、ご覧のように腕前は上々。ペルーでマンガなどを描く人々のレベルは低い。Sugoiが設立されてから、まだ5年とちょっとだから仕方がない。そのなかでは、抜群のうまさだ。彼は、Sugoi株式会社のマーケティング部長という横顔も持ち、ふだんはSugoiショップで働く。愛想が悪く、高慢で「ふん。アニメに飢えた貴様らに俺らが売ってやってんだぞー」的な態度で嫌われ指数500%のスタッフたちのなかでは例外的な好青年だ。ボディビルで鍛えた強靭な肉体が魅力で、彼女もいる。彼女いわく「最初は、彼がこういう絵を描くことになじめなかったけど、もう慣れた」とのこと。しかし、彼女は、ひそかに登場人物のモデルにされていることを、知らない。

コラム(2)
特撮マニアも、ひそやかに頑張ってます。
ペルーには、日本製の特撮作品のマニアも、少数だが存在している。まさに「マニア」。じつにマニアックな嗜好をお持ちだ。代表挌が、弁護士のセサル・ウエヤマ博士(37)だろう。日系3世のこの人、ウルトラ・シリーズはたいがい好きだが、なかでもセブンにご執心。プラモもフィギュアもビデオも揃えているのは当たり前。ご覧のようなイラストも描き、自分のホームページまで立ち上げた。さらに、特撮関連グッズを扱うショップまで出してしまった。が、残念ながらSugoiのようなブレイクはまだ…。「子どものころにセブンを見てトリコになった。当時の水準からすれば、ストーリーや、話に出てくる施設についての科学的な考証がリアル過ぎる。ユリコ・ヒシミ(注:アンヌ隊員を演じた女優)も綺麗だし。ま、レオも捨てがたいね。あの孤独な…」と、話は尽きない。この人、大物国会議員の顧問をしていたこともある。愛読書は、日本から取り寄せる『ホビー・ジャパン』。


『GOKUH』(バウハウス刊)2003年4月号掲載
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(墓61)海底から5台のクルマを発見

海底から5台のクルマを発見
坂出港(香川)の奇妙な事件の真相
太田宏人


 2003年8月、ちょっと理解しがたい奇怪な「事件」が、香川県坂出市の「林田(はやしだ)岸壁」で発生した。現場は坂出港の東部地区。なんと、岸壁近くの海底に車5台が沈んでいるのが見つかったのだ。民間の潜水作業会社「香川潜水」と坂出署、および坂出海上保安署が調べたところ、1台に1人ずつ計5人の水死体を発見した。遺体となって見つかったのはすべて香川県内の人。遺族らによると、それぞれの失踪の直前、自殺と判断されるような状況だったという。
 現場は海流もなく、ほかから流されてきた可能性はまったくない。みな、この場でクルマごと海に突入したわけだ。
 捜索のきっかけは、同年7月に「林田に行く」と書置きを残して行方不明になった坂出市内の男性。その親族が、香川潜水に捜索を依頼したためだ。潜水会社のダイバーが海中で車を発見。「香川潜水」が坂出署に届け出て、そして8月の大掛かりな引揚げ作業へとつながった、というもの。しかし、捜索依頼が出された男性は、まだ見つかっていない。
 四国といえば、お遍路さん。林田岸壁の近くにも、怪談『雨月物語』で有名な崇徳上皇の怨霊が出現したという札所81番「白峰寺」があるし、幽霊スポットとして地元のワカモノをびびらせる五色台もある。たしかに、もともと霊界じみた土地柄ではある。
 さて、当時かなりの耳目を集めた林田岸壁のできごとも、結局のところ「それぞれが自殺」「5人に接点なし」ということで、決着がついたのだった(とされている)。
 だが、どうして「一度に大量の自殺体が発見された」のかは、数紙をくまなく読み比べてみたが、どうもいまひとつ不明だ。スポニチは「自殺の多い場所」と伝えていたが…。
 
拍子抜け? の真相
 
 現場に行ってみた。
 けっこう、人の多い場所だ。釣り人も多いし、大きな船が入港していて、荷おろしの際中とあって、船が接岸したところには、荷物を運ぶクルマが集まっていた。
 釣り人に声をかけてみた。
「自殺の名所? ちがいますよ。今回は、偶然そうなったんとちがいますか」とは、フグを釣り上げたばかりの男性。余談だが、このフグ、食えないらしい。男性氏は、どうも怒っていた。
――でもここ、ドザエモンが揚がった場所でしょう? そういう所で釣りをしていて、薄気味悪くないですか?
「……それを言われちゃ…」
 別の釣り人(子ども)にアタック敢行。
――気持ち悪くないの?
「ふへへへ。釣りのほうが面白い」
 この子のお父さんが証言する。
「いやあ、あの事件の直後は、釣りする人もようけ減ったですけどね。あのあとも、海中から油が漂っている場所が2箇所ほど見つかったですよ。まだ『ある』って噂ですから」
 自殺の名所ではない。しかし、やたらとクルマが海に落ちる場所ってことか?
 JR坂出駅の近くで出会った地元のワカモノも語る。
「あの岸壁のところ、休みの前日の夜中に、ゼロヨンとかやっているんですよね。直線が長いし。港に入れば、交差点もないし。ゲートがしまってないから、夜も入れますんでね。でも、クルマ止めが低いんで、よく落ちるって。来る奴ら? 地元じゃないみたいですよ。わけ分からん連中」
 ゼロヨンの人々が落ちているなら、それは自殺とはいえない。
 そこで、捜索にあたった「香川潜水」の前川社長に電話をすると、
「もう取材は勘弁してヨ」という嘆息交じりの声。
「あれをやったおかげで、商売上がったりですワ」
――なぜ?
「じつはね、全国たいていの港の岸壁やら埠頭やら、よく探せば、何台ものクルマが沈んでるんだヨ。今回は、ウチのダイバーの知り合いからの捜索依頼、ということだったから引き受けたけど」
 社長の親切心が、結果的には“寝た子”をわざわざ起こし、大騒動を招いたきっかけになったわけだ。実際、「余計なことしやがって!」と誹謗され、業務に悪影響も出た。
――普通は、こういう捜索の仕事は受けないんですか?
「受けないね。私ら、港湾作業が専門だからね。今回は大変だったよ。警察といっしょの捜索では、一体一体の検死が長くて、結局あの日は5台しか揚げられなかった。こっちも潜水士を数人雇っているし。その日当とか、クレーン車のレンタル代とか、クルマの処分費。これもね、普通のスクラップ業者じゃ引き受けてくれないんだよネ。仏さんが入ってたクルマでは。いったん、洗ってからだから。一台あたり、数十万円かかった」
――(港を管理する)市は、費用を出さなかったんですか?
「『遺族がいるんだから、遺族からもらえ』っていわれる始末だったヨ。遺族っていっても、死んだ人と関係が悪い遺族とかいたしね。『なんでいまさら、(あいつのために)金を出さなくちゃいけないんだ?』とかゴネられて。あるバアさんからは、年金崩してもらって、金を払ってもらった。市役所からは(坂出市の)イメージが悪くなったからか、転落防止用のガードレールを設置したから金がかかったか知らないけど、文句をいわれるし」
――ゼロヨンで、よく海に落ちるとか?
「朝、会社の前に走り屋が座っているんだよね。『クルマが海に落ちた。オッチャン、何とかしてくれェ!!』って。あのへん、海苔の養殖もやっていてね。ガソリンでも付着したら、えらい損害賠償になるから。ほら、クルマってすぐに持ち主わかるでしょ? ナンバーとかなんかから。だから奴ら、顔を青くして頼むよネ」
――ほかの港でも見つかる可能性はあるということですが、なぜ林田で5台も見つかったんですか?
「さあね。でも、そのうちの一人は、知り合いだったヨ」
―――ええ?
「お金に困る人じゃなかったんだけどね。死んだとき、36か37歳だった。家族は、自殺だと思っていた。仕事のストレスかな? こういう世の中だから、気の弱い人は、つられて海に入ってしまうんかのぉ」
 前川社長によると、じつは坂出港の隣の丸亀港でも、林田の「事件」の前に、やっぱり海中から水死体がはいったクルマが発見されているそうである。
 ニッカンスポーツは、発見された5遺体について「全員男性らしい。いずれも白骨化」と伝えているが、前川社長によると、
「見つかったのは死後7年、6年、5年、5年、2か月の仏。2か月のものは白骨化していなかったヨ(つまり、腐乱死体)。(発見したときは)身体は膨らんで、(車内で浮いて)天井に張り付いていた」そうだ。
 
 それでも残る不可解さ
 
 今度は現場に、夜、行ってみる。
 すると、海面に漂う発光体…。夢中でシャッターを切ったら、夜釣りの「浮き」だった。
 夜の林田岸壁は、真っ暗だ。でも、釣り人がいる。ここって、メジャーな釣りスポットなのね!?
 真っ暗な闇の中、うごめいている釣り人に接近。
――ここ、水死体が…(本日、この質問に終始)
「怖くないね。まあ、少し、怖いけど」
――何が釣れます?
「太刀魚だね。昼間は、カサゴとか」
という釣り人のオジさんがいうには、じつはつい最近(2003年11月)も、坂出港で身投げがあったんだそうだ。これは、クルマごとのダイブではなかったが…。
「ギャンブルで金を使い果たした主婦だってさ。なにも、死ぬまでのめりこむことないのに」
 坂出港は自殺の名所なんかではなかった。ところが、「自殺」「自殺」と喧伝された結果、自殺を考える人たちの脳に、その名が刷り込まれてしまったのかもしれない。
 自殺の名所は、こうして作られていくのかもしれない。
「探せば、まだ出てく可能性はあるよ。誰も費用を負担しないから、私らはもうやらないけど…」(前川社長)
 それにしても、今回見つかった5台のクルマ+α、夜間も釣り人やらゼロヨンの人たちや荷役の人がいるわけだが、入水の現場の目撃者がいないということが、少し腑に落ちないところではある。
 夜の岸壁にクルマを止めるとき、たしかにクルマ止めが見えにくく、初めての者には、恐怖感がある。道が続き、その先に突然、この世ならぬ大きな“断絶”が、口をあけているようだ。
 風が強い日だった。夜の海は、三角の黒い波が揺れていた。遠くに、瀬戸大橋の燈火が見えていた。
 ちょっと、引き込まれそうだった。

2004年1月ごろ『漫画ナックルズ』(ミリオン出版)に書いた原稿
【写真】林田岸壁(霊感体質の方は見ないことをお勧めします)写真は別ウインドウで開きます

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(墓60)ペルーで「日本名」が復権

 いま、ペルーで日本語の名前(日本名)が復権している。
 ニッケイの子どもたちの多くが、日本名を体外的にも通り名にしているのだ。ニッケイの集まる場所以外でも、である。
 たとえば友人の三世、リカルド・コガ夫妻(ともに三十代後半)は、二人の娘(長女三歳、次女一歳)にそれぞれ日本名と、母国語であるスペイン語の名前を付けた。が、家庭の内外で日本名を通し、スペイン語の名前はまったく使っていない(ペルーでは、名前を二つまで届け出ることができる)。親が日本名でしか呼ばないものだから、娘たちもその名前で「自己認識」するわけだ。
 これまで、ペルーでも一般的には他国の日系人同様、日本名がすたれていた。それは、家庭内か友人のあいだだけの「出生証にない名前」だった。
 出生証に記載するとしても、対外的には使わず、もうひとつのスペイン語の名前を通称にすることが常識的だったようだ。
 戦前の移民は、ペルーに定着する気はなく、子どもたちにも日本式の教育を受けさせていた。故郷に錦を飾るための「移民」。そのころは、スペイン語の名前は軽視されていた。ところが、日本の敗戦で状況が変わる。帰国の途を閉ざされ、日系人はペルー人として生きざるを得なくなる。とくに、思春期を迎えていた二世・三世の多くは、積極的にペルーの良き市民たろうと努力した。
 スペイン語の名前を名乗ることは、彼らにとって当然の選択だったのだろう。以前、現地の邦字紙に勤務していたころ、当時の社長は執拗にスペイン語の名を僕につけたがった。
 「ペルーで発行する新聞の編集責任者が日本名というのは、芳しくない」からだそうだ。たしかに、外国人は報道機関の社主・責任者になれない法律(ザル法)があるにはあるが、そのことへの配慮ではない。事実、ペルー国籍でも外国の名前(日本語に限らず)を使っている人もいるのだから。ちなみに、瞥見ではイタリア、東欧、アラビア、中国といった英語圏以外からの移民の子孫たちも、おおむね移民先国家(ペルー)の国語(スペイン語)に由来する名前を通り名にしているようだ。家庭内ではどうだろうか? 興味あるところだ。
 さて、根強い排日の空気のなか、ペルー国民として自己を作っていった日系人。彼らにしてみれば、対外的に日本名を通り名にするなど、アイデンティティーにそぐわないのだ。
 ペルーの三大紙のひとつ「ラ・レプブリカ」の創刊にかかわり、のちに編集長をつとめたアレハンドロ・サクダさん(二世、六十二)は、
 「日本人の血を引いていることを忘れはしないし、一世の父親のことも深く、大切に思う」が、
 「私たちはペルー人。日系ということで(日本からの)便宜を求める気持ちになれない。だいたい、NIKKEIという言葉も使うべきではない」と語る。彼自身、少年時代に学級で一番の成績を取りながら、成績優秀者の表彰からはずされた経験をもつ。
 「それで、はっきり自覚したんだよ。これからはずっとこういうこと(差別)に立ち向かってやろうとね」
 彼も日本名を持っている。正確に漢字で書ける。でも、使いはしない。
 ではなぜ、若い世代に変化が起きたのか? 背景には、いろいろな理由がある。
 まず第一に、ペルー側の事情。
 ニッケイたちの社会的地位が向上し、先祖の出自国である日本も経済的大国になったことで、ペルー国内での人種差別がかなり下火になったこと。世界的に活躍する日本人も増え、「聞きなれないヘンテコな音」でしかなかった日本名が広く認知されたこと。ペルーでも、先のファースト・レディーは「ケイコ」と国民から親しまれていた。ペルー社会が、日本名に拒否反応を示さなくなっている事実を否定できない。
 次に、ニッケイ側の事情。
 日系ということの自覚も、確かに多少はあるかもしれない。
 それよりももっと、西洋系とは違う「意味をともなう名前」への憧憬や親しみ。さらに、子弟が日本名をつことで、日本への就労査証(ヴィザ)が出やすいなどという思い込み。これらこそが大きな要因といえる。
 ヴィザの件はともかく、出稼ぎというのは、発展途上国のニッケイたちにとてつもなく大きなインパクトを与えているのは間違いない。日本名の復権にしても、「民族の自覚」ということよりも、日本の学校で日本名を持たない子どもが受ける不便を、彼らは心配しているのである。
 ここに、ニホンでニホンジンたろうとするデカセギの意識を見るような気がする。受け入れ先(日本と日本人)は、そうは思わないのだが。ここに大きな悲劇の種があるのだろう。
 ところで、日本名の復権を裏付ける出来事として、2000年暮、リマで出版した『Nombres en Japon[es(日本語における名前)』という本が、好評だ。
 これは、友人との共著。吹聴するわけではないが、売れている。【2006年現在も、まだ売れ続けている】
 日本人の使う名前(日本名)を男女合わせて七百以上ピックアップし、ペルー的なスペイン語に翻訳しただけの手帖で、字画だとか占いめいた事柄は説明していない。
 もともとこの本のアイデアは、くだんのリカルド・コガによる。彼と二人で書いた。
 「いま、子どもに日本語の名前をつけたがるニッケイの若い親たちは多い。けれども、日本語の名前を考えてくれる一世はほとんど亡くなった。二~三世でも、自分の日本語の名前の意味を知らない人がたくさんいる。日本名前を翻訳した本を出せば、売れるに違いない――」。
 非日系ペルー人(こういう表現をしていいものか迷うが)も、本を買っているそうだ。
 現実に、ニッケイとは何の関係も持たない人たちが、子どもたちに日本名をつけ、それを通り名にしているケースもある。(不法)出稼ぎを想定しての場合だけではない。日本名へのシンパシーもあるわけで、まさに日本名の「復権」、百花繚乱といった風情だ。
****
 ちなみにコガ夫妻は、僕が娘に「日本語の名前を付けなかったこと」をいまでも訝しがっている。妻がペルーの日系三世であるため、娘は二重国籍。父親としては、日本でもペルーでも使える名前をさがして、エマ(恵真)と付けただけで、日本名をつけなかったという意識はない。
 むろん、エマくらいなら「許容範囲」と思ってのこと。僕には、絵美理ちゃんとか、富夢くんだとか、麻里亜ちゃんといった外国の名前をそのまま漢字にする勇気がなかったのだ。
 現在この国でかなり普通に見られる知比呂(ちひろ)、愛海(なるみ)、彩花(さやか)、沙奈(さな)、萌香(もか)、裕凱(ゆうが)、琉花(るか)、英那(えな)、穂香(ほのか)、泰弘(たいぐ)ちゃんetcといった名前(すべて実在)は、コガ夫妻にとっては、「日本名じゃない。おかしい」そうだ。
 なお、ペルーでは親族のだれそれから名前をもらうことが多い。それと同じ方法で、日本名を命名する親も、少なからずいる(意味はわからないので、音だけ)。
 知り合いのなかにも、「ヨネコ」という少女がいる。きいてみると、「おばあちゃんの名前」ということだった。そこで、名前の本には古い名前も採用している。
『季刊海外日系人』2001年8月号(第49号)掲載
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(墓59)ペルーのテレビ番組

2004年11月末、ある日のペルーのテレビ番組
*ペルーの地上波「ラテン周波数」局、「アメリカ・テレビジョン」局、「パナメリカナ・テレビジョン」局、「国営放送」局の各番組や、各局でやっていそうな番組を1局分として再構成しました
6:00 〔テレビドラマ〕メン・イン・ブラック(吹替)
「とらわれの地球人」
6:30 〔アニメ〕ポケモン【再】(吹替)
「ピカチュー大好きっ」
7:00 〔ニュース〕報道24時!
「フジモリ独占インタビューに成功か? どうなるトレド大統領? 軍幹部激白!!ほか」
8:30 〔テレビドラマ〕大草原の小さな家【再】(吹替)
「お父さんの怪我」
9:30 〔幼児バラエティー〕マリア・ピアちゃんとチモテオくん
マリアちゃんと踊ろう! スタジオから生放送だよ。
ママに愛のプレゼント、叶えて! あたいの夢
電話でデート ほか
12:00 〔音楽〕お昼のクリオーヨ音楽
チチカカ湖収録編
13:00 〔ガイド〕映画ガイド
アジアから新しい風「カンフーハッスル」
13:30 〔文化〕ペルーの文化
14:00 〔映画〕サウンド・オブ・ミュージック【再】(吹替)
16:00 〔ドラマ〕エル・チャボ
「チャボの恋人出現?」ほか
17:00 〔アニメ〕「キャンディ・キャンディ」「ドラゴンボールZ」
19:00 〔ドラマ〕ベソス・ロバードス(奪われたキス)
ステファニー・カヨほか
20:00 〔ニュース〕報道24時!
21:00 〔スポーツ〕サッカー中継
22:00 〔紀行〕「アレキパ/神秘の光と白い街」
0:00 〔バラエティー〕ラ・パイサーナ・ハシンタ
当局による「人種差別助長」の指摘を受け、放送中止の可能性あり
1:00 〔映画〕ジョーズ2【再】(吹替)


〔今日のみどころ〕19:00~ 「ベソス・ロバードス」パロマちゃんの貞操の危機! どう出る本命アレハンドロ――。授業が休みの午後、パロマ(ステファニー・カヨ)はバスに乗ってセントロ・コメルシアル(ショッピング・センター)へ買い物に行くことに。そこで強盗に襲われ、アレハンドロ(ファン・カルロス・ガルシア)にもらったブローチを盗まれる。一方、アレハンドロは例によって、ほかの女の子に鼻の下を伸ばしていた。
〔今日のみどころ〕0:00~「ラ・パイサーナ・ハシンタ」当局からの弾圧に、我々は反論する!!―― ニャ! ニャ! ニャ!(こういう風にしゃべる)インディオ系田舎者おばさん「ハシンタ」がリマに出てきて巻き起こすドタバタのバラエティーとして、一世を風靡した「ラ・パイアサーナ・ハシンタ」が、政府人権擁護官より「人種差別を助長している」との指摘を受けた。わが局としては、人種差別が実在することへの認識はあるが、番組の目的は、この現実を茶化すというものだ。かかる干渉は言論と思想の弾圧であり、断固抗議する! でも、もしかしたら、放送中止にするかも。最後の放送になるかもしれないので、見てね~。
(2004年、ミリオン出版の某雑誌に書いた)…

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(墓58)地方への旅2

 バスは、早朝のパン・アメリカン・ハイウェイを黙々と走っている。右の横の小さな座席に、少年が座っていて、私のひざに頭を乗せ、眠り込んでいる。
 時刻は午前5時。車内はまだ薄暗い。
 少年の寝顔は、ほとんど少女のようだ。だが、彼が目を覚ましたとたん、その顔は険しく変わる。生活の厳しさがしみ込んだ顔だ。
   ※ ※
 バスの運賃を払う。同じ路線でも、時間帯や曜日によって値段が違う。東洋系と見るとふっかける車掌もいる。目先の利益にとらわれるばかり。教養がないのか、生活が「厳しい」のか。そのすべてなのか。「観光立国」の政府構想がなかなか進まないのは、こういうペルー式のやり方にも原因がある。
   ※ ※
 検問で、バスが引っかかった。座席下の荷物入れの中の大きな袋が怪しい、というのだ。その袋の持ち主は左どなりに座るおばさんだ。彼女は、身分証明書に小銭を添えて、警官に手渡した。
 おばさんは、とても口が臭い。車内はすごい人いきれ。リマの水道水は超硬水で、洗濯のとき良く洗い流さないと、マルセル石けんの石けんカスが服に残る。それと汗が混じるとこれまたすごい臭いになるのだ。
 うしろで赤ん坊が突然、大泣き。朝の7時を過ぎると、車内のスピーカーから、かん高い声で歌う女性歌手のペルー民謡が脳みその中にぐわんぐわん響きだす。途中、休憩のため誰もいない砂漠に停車、女性もみんな野外でおしっこ。横行する強盗。頻発する事故…。
 そういうすべてに同化すると、中・長距離のバスの旅は、苦にならなくなる。
 念の為言うと、席を譲っても「ありがとう」の言葉などない。
 いい感じの人はいるけれど、結構ぎすぎすした世界である。
 それが、好きだ。
「ペルー新報」に書いたコラム。掲載年不明

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(墓57)観光立国? ペルーがぁ?


リマからの便り/その●
太田宏人 - 00/01/18 22:37:49
電子メールアドレス:hirota@mail.blockbuster.com.pe


「またかよ・・・・」。
いつものことだ。もう、さんざん慣れっこになっているのに、遭遇すると、やはり、怒りを禁じ得ない。
そこは、PROMPERUという政府機関。ペルーのプロモーションをする組織だ。

なぜこんなところへ行ったかというと、ヴィクトル・アリトミ在日ペルー大使に依頼され、今後、ペルーのPRの日本語のWebページの立ち上げに参画することになったからだ。

じつはペルー新報(勤務先)という会社は、資金がないので、自社のWEBサイトを持てないという。で、この状況を何とか打破したいという気持ちがあって、PROMPERUと組めば、便乗してペルーのニュースを日本語で発信するページを作れそうなどという口約束みたいなものがあり、しかもPROMPERUが著作権を持ている膨大な観光写真が無料で使える、というメリットがある(と聞かされて、のこのこ出かけた)。

そこで当日、大統領府からの紹介で、PROMPERUに電話し、指定された3時30分に、冷房の快適に効いたオフィスに出向く。
すると、血色の悪そうな担当者が、「仕事を中断しやがって、なんだこのアジア人は、あれ、そういえば、約束してたよな」…という顔を一瞬のうちに、した。読み取ったぞ。と思っていると、「約束は、5時30分じゃなかったっけ? いま、他の仕事しているから、終るまで、待てよ。お前に声かけるからさ」と、のたまう。

リマ市には、一般の場所で、クーラーがあるところなんてない。すごい一等地のオフィスなら、当たり前だろうが、私が勤める「バリオス・アルトス」のような小汚いところでは、あまりね。。。。

その場で引きつった笑いを浮かべ、帰った(1分考えた)。
その日の入稿時間もあったし、ほっとくと、1時間くらい平気で待たせるのが、この国の公務員。これは何度も経験しているし、本当は、そんなことで怒っては駄目なんだけど。

しかし、なぜ、彼らのPRをやらなきゃならないのか(しかも勤務時間外のボランティアで)…?

真っ平御免だね。
この国に来た観光客のいちばんの不満は、時間のルーズさ。プロモーション局からしてこれである。

もう、ばかばかしくって、怒りをこらえて、そのPROMPERUあたりの人種が行きたがらない、バリオス・アルトスの会社に帰った。

途中、知り会いが社長をしているホテルに行って、カフェを飲まなかったら、もっとイライラしてしまっただろう。

帰社後、例の担当者氏が慌てふためいて電話してきたと、電話の交換手がいう。

知ったこっちゃねーよ。そんな対応で、人を利用できるか? もっと、巧妙にやれ。こっちが楽しいくらいに…。

とにかく、この国が観光立国できるまでの道のりは険しい。
[00/01/18に「私的なペルー新報」というWEBページに書いた一文]
威張ってますな、おぬし。って、自分ね。

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(墓56)無駄で無意味な?日本の動物実験

これが《無意味な》日本の動物実験
ムダな実験のかずかず
実験動物の管理もずさん


太田宏人

●公権力による完璧なダークサイド

むき出しにされた脳に電極を埋め込み、電気を流し「神経の働きを調べる実験」。赤ちゃんの両目を縫い合わせ代理母(ぬいぐるみ)を与え「愛情を調べる実験」。1平方メートルの密閉器に閉じ込めて霧状の農薬を充満させ、どのくらいの量&時間で死ぬのかを調べたり、体を器械で固定し、目が潰れるまで薬品を垂らす「毒性実験」……。
こんな実験が「ヒト」で行われていたら、まるでナチス・ドイツだが【注1】、日本でもこういった動物実験が日夜ひそかに行われているのを、知っているだろうか?
動物実験の「現場」に一般人が立ち入ることはない。実験の事態が明るみに出るのは、多くの場合、内部告発によるものだ。
そもそも動物実験というものは、医薬品や化粧品、農薬、洗剤などを開発する際に、役所によって提出が義務付けられているものだ。製品化の前には何百何千という動物を使った(=殺した)実験が行われている。しかも、多くの実験/研究者が公金の恩恵を受けている。
動物実験の実態を解明するためのチェック機関なり、システムなりの法整備を、国は事実上、拒否している。ちなみに、製薬会社や化粧品会社はマスコミのスポンサーだから、マスコミが追及することは決してない。
コンドームに塗られた殺精子剤の開発のためにだって、毒性実験は行われている。その実験は、マウスの毛を剃ってむき出しにした皮膚に、殺精子剤を塗り続ける。皮膚がただれるまで続ける、というものだ。殺精子剤は界面活性剤。別名は「洗剤」【注2】。洗剤を皮膚に塗り続ければ、それが有害だってことは誰だって理解できる。要するに、分かりきったことを追認して、「データを提出する」ためだけに、実験が行われているのだ。
今回は、コンドームの毒性を書く記事ではないので、これでやめるが僕らの生活は、国の制度によって「動物実験で支えられている」構造になっているわけだ。


●無駄な研究のために「消費」される動物ペットとして飼われていた犬や猫はかつて、全国で年間100万頭以上も、実験施設に払い下げられていた。それが現在では1000頭を下回った(平成15年は犬=623頭/猫=111頭)【注3】。動物保護団体が、根気良く反対運動をしてきた成果だ。
ただし、動物実験の廃止活動に20年近く取り組んできた野上ふさ子さん(ALIVE)によると、「調べてみると、近年はペット業界からも実験施設に動物が売られている」という。
少し詳しく言うと、遺伝的に系統がはっきりしない飼い犬・猫での実験では、精確なデータが取れない。知人の研究者も「ペットとして飼われていた動物は、どういった感染症や寄生虫、遺伝的な病気を持っているか分からないので、実験の用途は限定される。人に馴れているから、『実験』しやすいのだろうが…」と証言する。医学部や獣医学部での、解剖や薬理(薬物によって起こる生理的な変化)の初歩など、ごく簡単な実験でしか使われない。国に提出したり、(業績を積むことを目的に)学者が学会で発表するような研究のための実験には、ビーグル犬などの実験用に「生産」された動物が使われる。ビーグル犬の場合、一頭15万円位するそうだ。ちなみに、払い下げの犬猫は無料~数千円。
ビーグル犬は高価なので、徹底的に「使う」という。ありとあらゆる実験と解剖を行って、最後には原形はとどめない。冗談ではなく、最後は市販のビニールのゴミ袋に詰められたりしている。では、飼い犬・猫の場合は? 施設によっては「どうせ払い下げの犬猫だから」という理由で、麻酔なしで切り刻むこともあるとか。
医学部や獣医学の学生は、こういうことを繰り返して医者や獣医師になるわけだ。
最近では、バイオテクノロジーの研究が「流行」で、工学系の大学や企業が遺伝子改変マウスを使って、盛んに実験を行う。生み出される遺伝子改変動物の数は、学会の“自己申告”によれば年間200万匹(ほとんどがマウス)。
日本ではいったい、年間何頭の動物が実験で「消費」されているのだろうか? 野上さんは「正確な数字は分からない。『先進国』のなかで、動物実験の実態が把握されていないのは、日本だけです」と前置きしながらも、「年間2000万頭くらいでは?」という【注4】。「日本では動物実験の実態が公表されないので、現在おこなわれている動物実験の是非や動物の数、代替法を検討したりするための議論のベースさえないわけです。役所の予算でも、市民による第三者評価が加えられるのに、同じ税金を使いながら、動物実験は密室。『科学の発展のために』という大義名分の下、文部科学省の予算はどんどん膨れ上がっているのが実情」(同)。
病気を解明する、という理由で、モデル動物を作り出す研究も行われている。たとえば、人に感染するものの、他の動物には本来は感染しないウイルスのDNAを操作し、感染可能なウイルスを人為的に作ってしまう。本末転倒だ。野上さんは「実験動物で得られたデータは、ヒトには適合しない」と断言する。
密閉された実験施設のなかでは、その逆(動物→ヒトへの感染)の研究が行われていても、誰もわからないのだ【注5】。

●ついに、いのちがけの内部告発
実験施設の維持管理は、学者ではなく技術者が行う。株式会社アニマルサポートの岩崎啓吾さんは、東京理科大の実験施設のずさんな実態を告発した。その結果、仕事は減って社員は半減。業界から冷遇されている。正義の内部告発というのは自殺行為と同義語だ。
理科大の実験施設の実態は「驚愕」そのもの。動物はマウスを使っていたが、普通は数匹しか入れてはいけないゲージに、雄雌を入れっ放しにするので、勝手に繁殖し、それをさらに放置するため、最終的には何十匹にもなってスシヅメ状態で共食い。こうなると、岩崎さんらが、尻尾を引っ張って頚椎を脱臼させて殺したり、死に至る量の麻酔を投与したり、場合によっては首を鋏で切るなどの「処分」をする。もちろん、こうならないようにするのは、研究者の義務だが、彼らはそんなことには関心がない。研究者が少し気をつけていれば、無駄な間引きを防げるはずだ。
これが、普通の現場だ。生命倫理的にもおかしいが、もっと変なのは、「実験施設内で勝手に繁殖する」ということ。こうなると、「親」と「子」を特定できない。遺伝系統は不明になってしまうのだ。そして、そんなマウスが、さも遺伝系統が分かっているかのようなIDをつけられて論文に書かれている実態に、岩崎さんら同社スタッフは憤った。
さらに、「可哀想だから」(可愛いから?)という理由で、若い研究者や学生が、遺伝子改変マウスを自宅に持ち帰ったりしていたそうだ。実験施設の外を徘徊するマウスを、近所の住民が目撃されたこともある。バイオハザードという言葉を、この子たちは理解していないのだろう。
「これで『科学』が成立するわけがない。なんのための実験なのか?」と岩崎さん。税金を、外部のチェックも受けずに湯水の如く使えるような環境にいると、感覚が麻痺して、小学生でも分かるような善悪の判断さえできなくなるのだろう。幼稚だ。日本の科学のベースにも「幼児性」がはびこっている。
* * *
科学の美名の下で、動物が「消費」される。だが、科学抜きでもヒトはヒトの生命を軽く扱う。たとえば戦後60年で、累計7100万件(実際にはこの数倍)もの人口中絶が日本で行われたことは、一つの証拠だろう。

【注1】日本の動物実験は731部隊の流れを汲む。そしてこれが、戦後の医薬界の根幹だ。
【注2】殺精子剤の主な成分はアルキルフェノールで内分泌かく乱物質(環境ホルモン)。他の用途は、消毒薬、酸化防止剤、農薬、香料、界面活性剤(洗剤)など。
【注3】保健所に持ち込まれて殺処分される犬や猫の数は、年間43万頭ほど(平成15年)。
【注4】マウスの実験施設(とくに工学系の大学施設)では、「使った動物」「処分した動物」の数を把握していないことが普通。
【注5】HIVは人為的に作られた可能性が指摘されている。


(追記)
[研究]という名の濡れ手に粟! これが「科学者」の実態だ
この原稿を印刷する寸前の10月4日、莫迦なニュースが報じられた。慶応大医学部のI教授が、実際には使っていない実験用マウスなどを購入したように偽装し、文科省と厚労省の科学研究費補助金を、判明しているだけで約4500万円も不正受給していたのだ。一人の教授による不正受給額では過去最悪。手口は架空伝票を切るなど確信犯だった。この人、免疫学の第一人者なんだそうだ。

●『漫画実話ナックルズ』(ミリオン出版)掲載
2005年

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(墓55)櫻井勝之進大人合同葬

旧臘二五日、神社界の重鎮・櫻井勝之進氏(皇學館元理事長、神社本庁長老)が長逝した。一月二六日には、学校法人皇學館、多賀大社、滋賀県神社庁の合同葬が伊勢市の三重県営サンアリーナでしめやかに営まれた。式には久邇那昭・神社本庁統理、北白川通久・神宮大宮司はじめ、神道関係者ら約七〇〇人が参列した。
櫻井氏は戦後神道界の再興に尽くしたほか、伊勢神宮や多賀大社等での奉職、皇學館大學の興隆等、斯界の発展に尽力したことで知られる。
(2006年、某週刊紙の記事)
※旧臘(きゅうろう)…去年の12月。新年になってから用いる語。桜井先生の帰幽は2005年12月25日

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(墓54)日系人対象のヘルパー講座がスタート

日本で初めて、ペルーやブラジルなどからの日系人を対象としたホームヘルパー2級養成研修講座がスタートすることになり、このほど開講レセプションが東京・五反田で開かれた。当日は、ペルーの代理大使や協力企業の代表者、受講生や講師らが出席し、賑わった。

講座の主催は株式会社アポーヨ。アポーヨとは英語の「ヘルプ」に相当するスペイン語。同社の田中均社長らは福岡県で20年以上、介護・福祉分野に携わってきた。

講座の内容は、一般的なホームヘルパー2級講座と同じ。第1期講座は2005年11月~翌1月まで。施設実習の実習先は株式会社ライフコミューンの諸施設である。アポーヨ社は、講座の修了生のために派遣業務も行う。

家族愛や隣人愛で知られる南米の人たち。恒常的なヘルパー不足のなか、レセプション出席者からは彼らへの高い期待が寄せられていた。

受講生のアンヘラ・ソネ(曽根)さんは沖縄系の日系ペルー人(2世、63歳)。ペルーでは看護師だった。「日本でもこういう仕事に就きたかったので、受講を決めました。がんばりたいです」と抱負を述べていた。
【2005年、某誌に書いた記事に加筆修正】
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(墓53)少年の宗派は? / カニエテ慈恩寺オヒガン騒動に言いたいこと

1999年3月 ペルー新報掲載コラム
少年の宗派は? / カニエテ慈恩寺オヒガン騒動に言いたいこと
ペルー新報日本語編集長・太田宏人


「とくに決まった時に、お線香を上げるわけじゃないけど、いつも手を合わせてるよ」―。
祖父母の位牌を祀った仏壇に手を合わせる日系三世の少年(母は米系ペルー人)。横で、母方の従兄弟たち(この子達は日本人の血を持たない)がおかしそうに笑っている。手を合わせたあとでこの男の子は、胸の前でカトリック式に十字を切る。
男の子は、照れくさくなったのか、「チャオ!」(ばいばい)といって駆けていった。
総体的に言うところの「日系」は、表面上は仏教の信仰を持っているように見え、仏教の用語を使う宗教の行事をいろいろ行なっている。オヒガンやオボン、オテラやブツダン、イハイなどがこれに相当する。だが、これらに無理矢理、ある特定の人たちが「日本の宗派」的な立場から、あれこれと講釈を垂れている。やれ、線香の置き方はどうだとか、戒名とは云々。これが、問題の根本のような気がする。現実を見ていない愚行である。
「日系は古い日本を云々かんぬん」というステロタイプに流されがちな日本の報道の方にも注意を促したい。
(慈恩寺のある)カニエテ町で行われた日系のオボン・オヒガンを取り上げ、「仏教が残っている」と伝えた報道陣へ、である。そういう表面的な視点がペルーに逆輸入された形で、日系人のなかに「ときどき仏教徒になることで、いい印象を(日本へ)与えられる。さらにプラス・アルファがあるかも」と、認識してしまっている日系人がたくさんいることも、日本の報道陣へ認識願いたいのである。
この世を去った親や祖父母を想う、日系ペルー人の心根は多様である。が、それは存在する。
宗教が成立するためには、①信仰の対象、②教義、③信者、④集会する場所#8212;が不可欠という。信者の実情を前提としない(信者の現状から乖離している)議論は、いかさま問題を大きくし、騒乱を呼ぶだけではないだろうか。
信仰を受け継ぐものは、誰か。信仰の対象となっているのは先祖か仏陀か。
いま、カニエテ慈恩寺のことに関連して、蠢めいている方々にお願いがある。とくに、仏教の関係者に念を押したい。日系ペルー人の故人たちを「あれらはほとんどうちの宗派でした」というような欺瞞は、もう金輪際やめて欲しい。慈恩寺に収められている位牌をみれば、すぐに分かる。寺籍は曹洞宗であったが、沖縄系が多いし、形式や戒名などない位牌がどれだけあるかを。もちろん浄土真宗の形式のものも多い。
「信者」といえるのか知らないが、日系ペルー人の現状に即して、筋を通しながら論じて欲しい。ペルー日系人協会も、カニエテ日系協会も浄土真宗も、曹洞宗もである。
これを宗門の間の懸案にすべきではない。
まずは、日系ペルー人の問題としたい。

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(墓52)アンデス山中の一夜

しんぽう週末コラム

以前、アンデス山中の村にいた。
ある祭の夜、少し酔った。そして、踊り疲
れた。酔いをさまそうと、宴会場になってい
るパン焼きの家(カサ・デ・オルノ)から、
外に出た。

すると、満天の星空だった。無数の流れ星
や、名前を知らない南半球の星座たち。海抜
三〇〇〇メートルの夜の冷気が肌を刺し、ほ
てった体を刺激する。

そうやってしばらく上を向いていたら、男
の子がやって来て、何を見てるの? と、聞
いた。

「お星様」
「ふ~ん…」

毎日、落ちてきそうなほどの星空を見飽き
ている彼には、星のない街から来た人間の感
動など、わかりにくいのかも知れない。

※ ※
人は、身の回りにある、ありふれたものの
価値を忘れがちで、目新しいものばかりを求
めてしまう時がある。

それを、星に教えられた気がする。ただし
星は星。何かを言ってくれるわけではない。
星は、悪意を持っていない。同情もしない。
ただ冷たく、澄んだ光を発するのみである。

星の輝きは、客観的だ。だから、大切なも
のをなくしたり、感情に流されそうな時、星
を眺めに出かけたい。

悪意でも、同情でもない、そんなありがた
い批判にさらされた時こそ、星々のように、
冷徹でありたい。

それでは皆さん、良い週末を。ちなみに、
風邪の予防には、いつも手を石鹸で洗うこと
だそうです。これだけで、風邪になる確率を
三割も減らせるそうですよ。
(8/2)
『ペルー新報』掲載日時忘れた

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(墓51)都会者と田舎者

●飛行機がアクシデントで、あしたまで飛ばないという。
ラン・チリだ!
ホテルを用意してくれるという。
個人旅行らしい日本の女の子が、チェック・イン・カウンターで困ってた。
スペイン語が分からないみたい。
少し助けてあげた。ホテルでも一緒にご飯食べたり、いろいろ話した。
OLだって。

メールアドレス交換したし、こちらからも送ったけど、
それ以来、音信不通。
彼女、日本の会社社会に帰って行ったんだ。
わたしは、かわらず、ここにいる。


【ペルー在住時に『JARU』ハル誌に載せてもらったもの】

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(墓50)ぼくとあなたのプチ修行

ぼくとあなたのプチ修行
構成・取材・文:太田宏人(ライター)

[リード]
宗教団体が一般人向けに開催する手軽な体験修行が昨今、注目を集めている。必ずしも布教・改宗が前面に出ないという意味で「プチ修行」とか、「カジュアル修行」といってもいいかもしれない。俗な言い方をすれば、はやりの「おケイコ・レッスン」に、プチ宗教体験がブレンドされたカルチャー・スクールの「ノリ」。とはいっても、そこには深い精神世界が展開されるらしい。というわけで、GOKUH版「初めての修行」マニュアル! リスキーなカルト教団が横行するご時世だから、安心(?)の修行のすすめ。これであなたも“解脱”へ。


布教・改宗とは無縁な一般人の「プチ修行」

『食う寝る坐る 永平寺修行記』(野々村馨・著、新潮社文庫)という“地味な本”が昨年、都内の大手書店で平積みになっていたのを見た。もともとは単行本で、新潮社によると現在までの売上は、単行本と文庫本の累計で12万部だという。
本の内容はふとしたことから生きることにつまづいた著者が出家を決意し、以前から興味のあった道元禅(曹洞宗)の両大本山のひとつ、福井県・永平寺に入山し、下山するまでの1年間の修行の記録だ。
この本に書かれているのは、形而上の精神世界もしくはストイックな禁欲生活への賛歌ではない。信仰に基づく厳しい修行を淡々と描写し、「人間が生きること」を炙り出す。修行内容は凄まじい限り。脱走や栄養失調での入院で脱落する者が毎年、必ず何人かいるそうだ。堅い信仰を持つ者か、親の職業=住職を継ぐしか未来がない境遇に生きる者以外、「おやま」の修行は貫徹できないのではないかと思えた。ちなみに、野々村さんはそのどちらのタイプでもない。とくに仏教への帰依が深いわけでもない、一般人だ。
このような本が売れている背景に、読者の「非日常に生きること」への憧れや、ほんの少しの時間であっても、俗社会と距離を取りたい気持ち、超越した存在を求める衝動、「修行」という行為によって、喪失感すら失ったような己の心と体を改めて実感し、自分自身を高めたい願望――などがあるのかもしれない。
彼のように1年も修行することは、普通は難しい。「でも、やりたい」。そんな人たちの想いを成就するのが、プチ修行。布教の一環として、各寺院や教団による一般人を対象にした「お手軽修行」というのは、これまでもたくさんあった。それらとプチ修行の違いは、参加する側に、布教や教化もしくは改宗される気が全然ないこと。気持ちの持ちようは変わるかもしれないが、自分の社会的なスタンスや信仰などをまったく変えるつもりがない、という点だ。主催側も、布教・改宗をあまり強要しない。だからこそ「プチ」なのだ。
『陰陽師』の影響もあって、一般女性による巫女人気が高くなった(巫女は神社神道における奉職者だから、陰陽道とは別)。それは「巫女になりた~い」でも「巫女で一生を終わりた~い」でもない。巫女装束への憧れは(言葉は悪いが)、まるでコスプレ。しかし、各地で行われる「巫女さん体験(修行)」に参加した人は、コスプレだけでは望めない「何か」を得て、そして日常の生活に戻っていくのだ。
東京自由大学という市民大学が主催する滝行(会員制)もある。一般人がただ滝に打たれているだけでは、たんなる物好きか宗教マニア。だが、参加者も指導者も「大いなる何か」を体感する点で、立派な宗教上の修行だ。プチ修行は、教義や教団から離れつつも、れっきとした宗教的経験なのだ。


小さな山寺で初めて禅を体験!

論より証拠。そこで、東京西部・西多摩郡日の出町の西徳寺(曹洞宗)という禅寺で、坐禅体験をさせていただくことにした。

それは3月のある土曜日。JR武蔵五日市駅で朝の8時に本誌編集M氏と落ち合い、タクシーに乗って寺へ向かう。地元のタクシー運転手もよく知らないというほど、こじんまりとした山寺である。寺では、婦人会の皆さんが掃除をしていた。おばあさん、お嫁さん、孫娘という三世代が、にこやかに、せっせと本堂の隅から隅までを清めていた。
満開をすこし過ぎた桜が、ひらひらと晴天に舞う。それはじつに和やかな風景だった。
住職の寺江規克師に坐禅作法を教わりながら、実際に坐ってみる。壁に向かうのだそうだ。パンヤの詰まった坐蒲(ざふ)に腰を降ろし足を組む。坐リ方は、左右の足を股の上に置く結跏趺坐(けっかふざ)が本式というが、はっきりいって肉体的に無理。「坐禅を続けていれば股関節が柔らかくなるので、結跏もできますよ」と寺江師はいう。この日は、左足を右のまたの下に入れ、右足を左のまたの上に載せる半跏趺坐(はんかふざ)にする。
これは目からうろこだったが、寺江師によると、坐禅は苦行ではないという。痛さを我慢するものではないので、半跏でも構わないのだそうだ。それよりも大切なのは、姿勢。背筋を伸ばし、胸を開く。眼は仏像と同じく半分開いた「半眼」。何かを見るともなく前方下に視線を這わす。
手は、股の上で法界定印(ほっかいじょういん)を結ぶ。これは、右の手を下にし、その上に左手を重ね、両手の親指を軽く合わせるもの。
「姿勢が崩れると、坐禅になりません。坐禅を始めるさいは、しかるべき僧侶に指導してもらって下さい」(寺江師)
いろいろな雑念が浮かぶが、それを否定しないのだそうだ。
当日、うかつにもGパンだった。これは坐禅には適さない。
坐禅が始まると、編集M氏が写真を撮り始める。本堂の外では、檀家さんの世間話。これが面白くて、笑ってしまいそうになる。また、M氏は法界定印や半跏趺坐などの「パーツ」にこだわって撮影しているようなので、素足の裏の水虫が写真に写りはしないか? などと、どきどきした。ワタクシゴトもあれこれ考えた。雑念のオンパレードだったが、不思議と寝不足の頭はすっきりとしていた。眠くはならなかったが、時間の感覚を忘れた。
たった一回の体験で坐禅を語るつもりはない。ただ体験談として言わせてもらうと、わずか1時間弱の坐禅だったようだが、日常の凡俗な時間が、坐禅のあいだは途切れた。解放されたような感じ。ご住職がぼくの肩に振り下ろした警策(きょうさく)という棒の一撃は痛かったが(修行僧への一打は、その数倍の力で行われるらしい)、特殊な神秘体験もなかった。黙祷での静寂とも違う。なにか、「これでいいんだよなー」というような、普段だったら無防備と感じられるような精神状態になった。


緩慢な自殺とプチ修行に共通する“自己実感”

以前、曹洞宗のビデオ映画『禅のいぶき』をスペイン語に翻訳する仕事をやったことがある。内容は、本山にこもって修行に専念する雲水たちの生活の紹介だ。修行の開始にあたって、オリジナルの日本語ナレーションが「命がけの修行が始まる!」と野太く言い放つのだが、訳しながら「まさかー」と思っていた。『食う寝る坐る――』を読むと、あながち嘘ではないようだ。
しかし命を懸けることが、修行の価値を高めるのだろうか? それなら、生活を守るという意味では、どんな職業だって命懸けだ。なにも山にこもって修行する必要もない。たとえば、ライターという腐れ稼業を続けるぼくでさえ、1年のうちに何回も地獄を経験する。何日も徹夜もしくはほぼ徹夜の状態が続き、目はかすむし、キーボードを叩く指はむくんで、体のあちこちが痛む。コーヒーの飲みすぎで腹はタプタプ&吐き気でゲロゲロ、脈も乱れて、動悸が激しくなり、起きているのに脳内麻薬のせいで幻聴と幻視のナチュラル・ハイとなってくるわけだが、こんなことはただの生命の消耗ですけどね。
「命懸け」で思いつくのは、いま話題の海外ボランティア、またはボランティア・ヒッピー(バックパッカーもしくはプー太郎を正当化するためのフリージャーナリストやライター含む)。
危険なところに行きたがるのは、自覚のあるなしに関わらず「緩慢な自殺衝動」なんだそうだ。危険に身をさらすことで、生きている感触をつかみ、体や心が自分の体と心であることを実感する、というわけだ。余談だが、飽食ニホン人のボランティアの目的や存在理由のために「世界の可哀相な人たち」が存在するわけではないので、目的や充実感のベクトルが“ボランティアする自分”“真実を伝えている自分”に向いている人は、やはりオカシイ。
お釈迦様は、肉体と精神を限界まで追い込む修行を、否定した。彼は出家後、6年のあいだ苦行を続けたが、悟れなかった。ところがあるとき、弦楽器の弦を見ながら、
「弦の張りが強すぎたら切れるし、弱すぎたら音にならない」と合点が行ったという。
頭ばっかりでも体ばっかりでもだめ。「中道」である。中道の修行は、各宗派では違った現れ方をする。坐禅したり、一心にお題目を唱えたり、滝行したり、掃除したり、現世と隔絶したり、論戦したり、加持祈祷を続けたり。しかし共通するものは、「自己とどう向き合うか、自己とは何なのか」を見つめること。
曹洞宗の開祖である道元禅師も「仏法をならうというは、自己をならうなり」と喝破する。
一部の国際ボランティアも、プチ修行の参加者も、自分に酔いやすいことと自己を実感することは似ていると思うが、はっきり違う点は、前者は最終的には「自分の納得のための行動」であるのに対し、後者は「自分を見極める」もの。プチ修行も自己満足かもしれない。しかし、宗教施設で行うことに意義がある。そこに広がる「聖なる世界、厳格な世界、折り目正しい世界、人智の及ばない世界を」に圧倒されるのだ。別世界に触れるだけでも、俗世間の垢にまみれた自分を再認識するきっかけになる。人間本来が持っている「生きる律動」が正常化する、そんな感触。
緩慢な自殺などをするくらいなら、プチ修行がお勧めだ。実際、坐禅を自殺防止のカウンセリングの援助法として採用する団体もある。


プチ修行は、ケイコとマナブと同類なのか?

村山省三師(曹洞宗、2005年死去)は、6年間のブラジルでの布教経験を持つ。サンパウロの禅寺に集まる日系人は、おもに先祖供養が目的だが、日系ではないブラジル人たちは坐禅志向だ。日本的なメンタリティーや習慣を若干継承する日系人より、仏教からは遠いブラジル人たちが坐禅会に参加する動機は、どんなものだろうか。
「のぞいてみようかな、という興味。ヨガや精神統一のように、カルチャー・スクールのひとつとして体験することが多い」という。これ、まさに日本のプチ修行と同じ次元だ。たとえば日本では、プチ修行を「教養講座」ならまだしも、「観光地のアトラクション」なみに紹介する媒体もあるくらいだから。
「ブラジル人参加者に継続性はないですね。9割以上の人が続かない」
これは、ほかの国でも当てはまることらしい。
しかしいかに“教養的な習いごと”とはいえ、指導する側は信仰に裏打ちされた本物の僧侶。坐禅も、教養を高めるために開発されたわけではない。だから、参加者が次第に違和感を覚えていくという。ただし肉親との死別や、職場でのトラブルなどを抱えているような参加者は、ハマることがあるようだ。
村山師に、プチ修行に参加するときの「心得」を聞いてみた。
「参加者お互いが尊重しあうことです。坐禅会なら、そのお寺に対しての感謝も必要。寺には寺のルールがありますから、それを守るマナー。私も永平寺で一般参禅(一般人向けの坐禅会)を指導したことがありますが『なんでここに来たの?』と思わざるを得ない礼儀のない人たちがいます」という。プチ修行は、プチはプチでも、やはり修行だ。たんなるお稽古事とは次元が違うということだろう。
ちなみに道元は、こうもいっている。
「人が悟りを得るのは、月が水に宿るようなものである。月は広大な光を放つが、一滴の水にさえ宿ることができる」
ある禅僧は、
「たった1秒の坐禅でも、本質的にはそこに無限の過去と未来が凝縮されるといっていい」と語る。プチ修行といっても、決してあなどれないのである。


「葬式仏教」は、プチ修行に対応できない

「巫女萌え~」でアレな男たちも含め、巫女に憧れる人たちのサイトをのぞくと、じつに綿密に調べ上げている。その情報量および情報を集める情熱たるや、圧巻だ。素人さんの知識が、本職の巫女さんの情報を圧倒的に凌駕している。この逆転現象は巫女に限らず、神職でも僧侶でもあてはまる傾向がある。僧侶でも、親が坊主だったから跡目を継いだ人よりも、出家を決心して仏門に入った元・一般人の僧侶のほうが、熱心といわれる。そして、宗教マニアの情報量に本職が太刀打ちできない。
仏教の伝統教団についていえば、日本中いたるところで体験修行が開催されているように思えなくもないが、実際には「プチ修行」なり檀家・信者もしくはマニア対象の催しを開いている寺院は、絶対的に少数だ。檀家の葬儀・法要といった檀務【ルビ:だんむ】だけで精一杯、というより、それだけで食べていけるそうで、わざわざ面倒くさい布教活動をしたがらない。「葬式仏教」と揶揄されるのは、このためだ。ぼくたちはいったい1年のうちに何回、旦那寺もしくは氏神の社に行くだろうか。聖職者の名前を知っているだろうか。そしてその人に親近感なりを持っているだろうか。卑近な例をあげさせてもらうと、ぼくは旦那寺にはよく行くほうだ。家の墓が寺の敷地のなかにあるためだ。だが、住職と話したことは一度もないし、わりと大きな寺なので、はっきりいって、働く僧侶は組織の人間。檀務は業務。組織に対して胸襟を開けるわけがない。仏教関係の翻訳で分からないことがあっても、聞きに行く気にもならない。墓に関していえば、永代供養料とは別に管理費まで取っているくせに、立てて間もない卒塔婆を処分される始末。抗議しても、顔の見えない組織の人間が、まるで役所のような対応をするだけ。
もちろん、檀務も立派な布教・教化活動の一環である。また、檀家以外の人間に対して住職がケアをすることを檀家が嫌う地域も、いまだにある。さらに、檀家が少ない寺院では、住職が普段は勤めに出ているケースも少なくない(現金収入の途がさらに少ない神社では、“兼業”の割合は高い。知り合いの神主で、会社のロッカーに装束を入れ、昼休みに地鎮祭を行う人もいる)。
こういう状況では、迷える現代人の宗教的ニーズに応えることは難しい。プチ修行といっても、まったくちゃらんぽらんな参加者もいるだろうが、解決したい何かを秘めている人もいる。そういう人たちに、伝統教団は対応できていない。だからこそ一時期、安直なまでに「答え」を示してくれるカルトが、とくに年齢の若い人たちに受け入れられた。
しかしカルトが危険なことは、ある程度は認知されるようになってきた。プチ修行ブームは、オカルト・ヒーローたちをもてはやした前世紀末の反動かもしれない。しかし今年4月には、自己啓発セミナーを装うカルト集団「ホームオブハート」(栃木県那須町)において常軌を逸した児童虐待が加えられていたことが発覚するなど、カルトは死んでいないし、これは氷山の一角だ。どんな宗教でも伝統教団が不活性化している限り、カルトの氷山は半分も溶けないだろう。
外国人が日本人をいろいろと不思議がるなかで、あの「無宗教」というのがある。たしかに、伝統教団とその教団を構成する聖職者の側から、社会と時代を貫く強く効果的な声があがってこない状況であれば、仕方のないことかもしれない。だが、初詣や祭礼、七五三参りの例を出すまでもなく、日本人は宗教儀礼は決して嫌いじゃない。むしろ、好きだ。プチ修行というカジュアルな修行体験も、宗教的体験なのだ。そしてそれが流行るのは、人々に求められているから。教団の側から「プチ修行でござい」と、需要が作り出されたわけではない。
坐禅体験のために、日の出町の西徳寺にいったとき、婦人会の皆さんが掃除をしていたことは前に書いた。地方の神社仏閣では、そんな情景は珍しくないはずだが、そういうコミュニティーが機能しているところでは、プチ修行の需要は少ないのかもしれない。プチ修行というのは、専門職をめざす人の登山口でもなく、教団や教義への帰依でもない。俗世間とは異なる空間と時間で、俗界には存在しない特別な所作を自らに課しながら、超越した世界を体感する。そして、俗界の膿のなかから自己を再確認する。肉体と精神の復権である。
人間は、山や巨木、滝や海のほか、神々しさを湛える宗教施設でもリフレッシュされるようだ。機会あるごとにお寺に行くことができない人には、プチ修行のような経験が必要なのだろう。
宗教宗派を超え、旦那寺や氏神、鎮守の神社という制約からも解放されたプチ修行こそ、現代的な信仰生活の王道なのかもしれない。
今後、伝統教団の聖職者は、この流れに対応できる少数派と、対応できない多数派にはっきりと二極化していくのだろう。

2004年、某「GOKUH」誌掲載

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(墓49)ペルー人の恋愛相談

リマ市ラ・ビクトリア区在住/レオネル氏(37歳)
「ぼくの女房は、
ぼくより、彼女のいとこのほうが好きなんだ…」

先生、ぼくは、女房との絶対に終らないケンカに、日夜悩んでます。うう。女房のやつは…、くそったれぇ! もう我慢なんねぇ! といった感じですよ。だって、8ヶ月前、凄い大金を要求したんです。なんでも、いとこ(ならず者っスよ)の心臓が悪いとかで。

ここだけの話ですがね、女房のヤツ、800ドル貸したとか何とか…。女房は、ロサってんですがね、あいつにばっか尽くして、べたべたしやがって、ぼくには何にもやっちゃくれないんです。うう。自分じゃ働かないくせに。あの金、全部、俺の金じゃないスか?

文句いうと物は投げるわ、脅迫するわのありさまっス。そのイトコのやろう、この間うちに来たとき、有難うとかいうのかとおもったら、自分の病気の自慢話たらたらしやがって、キー!!

こんな調子じゃ、うちの女房、今度またアイツが病気したら、おんなじこと繰り返しますぜ。そんでもって、ご飯を持っていって、スプーンで「はい、あーん。うふ」なんてやりかねん。こんなこと、許されん!!! でしょ?

彼女、ヤツの病気の不幸に心動かされてるんだろうって、思いますよ。でも、こう思ったら不自然ですか?「アイツに惚れてるんじゃないか?」って…。

毎日、悶々として悩んでます。そうかもしれないって。自分はまったく金を使えないし、失業しているのに。
せんせい、どうしたらいいのよ?

ペルーの大衆紙の連載を面白半分に翻訳して日本の雑誌に売り込むが、あえなくボツ。撃沈。

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(墓48)米国の日系「碁」事情は?

米国の日系「碁」事情は?
国際ペア囲碁選手権で来日したパンダネットの米国コーディネーター、マーク・オカダさんに聞く


日本ペア囲碁協会が主催する第一二回国際アマチュア・ペア囲碁選手権大会が(2001年)11月17日と18日に都内のホテルで開かれ、中国の范蔚菁(Weijing Fan/14)・黄晨(Chen Huang/13)組が優勝した。大会は日本の各地方ブロックの代表を含む21か国・地域から32組が参加して行われた。


大会期間中は、ネット上で囲碁の対局や観戦、指導碁も受けられる「パンダネット」(http://www.joy.ne.jp/panda/)の体験コーナーも設置され、同ネット合衆国のコーディネーター、マーク・オカダさん(63)も来日した。

オカダさんは、カリフォルニア州バークレー市在住の三世。祖父は兵庫県出身の故・平島音松氏。この祖父から、囲碁の手ほどきを受けたという。
「私が、一四歳のときだった。仕事から引退してひまを持てあましていた祖父の相手をするうちに、囲碁を覚えました」
と、オカダさんはいう。

ところが、北米の日系人のなかでは、オカダさんのように祖父や父親から囲碁を教わった人物は、多くないそうだ。
「三世のなかで、囲碁を打つ人はほとんどいないと思う。私の囲碁仲間にもいない」

“日本の文化”が断絶し、継承していないのだろうか。その背景には、第二次世界大戦の戦時下に行われた米国政府による日系人の強制収容がある。

「あの戦争のときに、日本の文化の多くが次の世代に継承されなかった。日本の文化への関心も薄れてしまった。(囲碁を打つ日系三世という)私の存在は、かなり“奇特”なんです。それに、北米の日系人の囲碁人口は少ないですよ」と、オカダさんはいう。

「私は、個人的には日本の文化に関心がある。裏千家の茶道も習っているしね」
出自国(この場合は日本)の文化(囲碁)が、ホスト国(米国)に伝播するさいに、移民集団が媒介とはならない現象は、他の国でも起こっているようだ。

今回、同大会に初参加したヴェネズエラのマリーア・プエルタさん(45)にもあてはまる。
プエルタさんは一〇年目に二ヶ月ほど研修で日本を訪れた。

「そのとき、JICAのナガトミさんに囲碁を教わったの」
その後、「ナガトミさん」がヴェネズエラに赴任した関係で、囲碁の愛好グループが現地で結成された。現在、会員は50人ほど。
「日本人の子孫たちから碁を教わったことはありません。逆に、私たちが彼らに教えています」と、プエルタさん。
大会の成績は? と質問してみると、
「う~ん。強豪ばかりだから。まあ、しょうがないわね」と、笑っていた。

※ペア囲碁・・・男女二人の各一組が対局する囲碁。日本で考案された。ちなみに、対局中の相談は禁止されている。詳しくは日本ペア囲碁協会(http://www.nkb.co.jp/pairgo/)へ。

『海外移住』KAIGAIIJU第603号2002年1月号掲載
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(墓47)おやすみなさい

しんぽう週末コラム

若い日系人のセニョリータに、一番好きな日本語の言葉を聞いてみたら、「おやすみなさい」とのこと。

彼女の妹さんが、寝る時に言う、この言葉にとても優しい響きがあるから、という。そして、日本語を勉強しはじめて、その意味を理解し、ますます好きになった、という。
どうぞ心安らかになさって下さい、つまりぐっすり寝て下さい、という意味だが、「ぐっすり寝て下さい」とはっきり言ってしまったら、言葉の響きも意味も気持ちも、すべて損なわれるような気がする。日本語は、優しさを遠回しに表現するのだから。そこに、心根の温かさや、思いやりが込められている。

ちなみにこの姉は現在勉強中としても、以前は二人とも日本語はちんぷんかんぷんだった。祖父母の話していた日本語の断片が記憶に残っていて、それを日常の生活にも使っていたようだ。

我々はふだん何気なく日本語を話し、家族には面倒くさくなって「お休み」ともいわないこともあるが、かえって、この姉妹のように意味や気持ちをちゃんと伝えている人達がいるようだ。
とても些細なことだけれど、大切なこと。そのことに気付かせてくれて、ありがとう。
◇ ◇
心が痛い時に欲しいもの。それは、ただ一言の「おやすみなさい」。それだけでいい。
では皆様、どうぞ良い週末を…。
『ペルー新報』掲載日不明、冬のいつか


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(墓46)リマ市電が営業を再開

2003年の営業開始の直後に「警備関係の予算がない」としてリマ市役所が休業した「リマ市街区鉄道線」がこのほど、営業を再開した。
路線は、リマ市内南部のサン・ファン・デ・ミラフローレス区からヴィジャ・エル・サルバドール区までの約10キロを12分で結ぶ。始発は午前10時で終電は午後5時40分。運賃は50センターボス均一という。
おもに利用するのは週末の買い物客と公園への行楽客で、月に2万4000人~3万2000人が見込まれている。
[某団体の会報用に書いた]
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(墓45)フジモリ時代以降、就学率低下?

INEI(国立統計院)によると、フジモリ政権末期の2000年から2001年にかけて、小学校への就学率が低下している。

小学校への就学率は、98年~2000年まではそれぞれ90.9%、92.7%、93.5%と増加していたが、2001年には91.5%に落ち込んだ。フジモリ政権の末期以降からの経済低迷が影響しているのかは不明。ただし、全体的に、「より学費の安い学校」を選ぶ傾向が強く、日系諸校が位置する中堅クラスの教育校で、生徒数の減少が続いている。

国立校では建前は無料だが、さまざまな名目で、実質的には有料になっている。“学費”は校長や父兄会の自由裁量といわれ、学校によって差異がある。

一方、中学校では就学率が年によって変化する。同じく98年~2000年の就学率は62.0%、59.3%、61.7%であり、2000年は65.6%となっている。文盲率は12.1%(2001年年次統計)。
[某団体の会報用に書いた]


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(墓44)「50年代家電」がペルーで活躍

 ひょんなことから戦後五〇年間の日本の産業デザインを調べていたら、南米のペルーでいまも普通に使われている炊飯器やミキサーが、五〇年代のデザインそのままってことを知った。
 東芝が電気釜を世界ではじめて開発したのは、敗戦から十年後の一九五五(昭和三〇)年。スイッチひとつだけのシンプルな操作と、いかにも機能的な外観が印象的だった。外観(フォルム)が、プロダクトの機能を代弁するという意味での「機能性」と、人間工学的な視点を取り入れ、使い勝手のよさを追求した「機能性」がミックスされ、“機能主義デザインの逸品”ともいわれる。
 この電気釜は、一九五八年のグッドデザイン(Gマーク)選定商品になっている。
 それから、ミキサー。
 戦後、アメリカのホームドラマが大量に輸入された。金髪美女のアメリカ人主婦が使いこなす電気製品は、まさに金ぴかだった。冷蔵庫や洗濯機とならんで、日本人主婦の睡涎の的だったのが「オスター社のミキサー」だ。これ、現在では日本市場から駆逐されたが、日本のメーカーがミキサーを売り出すまで、ダントツの人気を誇っていた。銀メッキで、アルミダクトを連想させる光り輝くモーター部が特徴。これもペルーで現役だ。
 また、電気湯沸し器。単純にいうと、金属またはプラスチック製のポットの底部に電熱線を入れただけの仕組みで、五〇年代の日本でよく使われていた。ということも、調べ物をしていた段階で知ったことで、ぼくがペルーに住んでいた九六年から二〇〇〇年には「ペルー人って、いろいろ発明するなあ」と思った程度だった。
 ペルーでは貧困地帯を中心に、ガスコンロを持たない家が多い。山登りする人にはおなじみの「ラジュース」という灯油コンロを家庭で使っているところもある。
 ぼくがはじめに住んだ、六畳ていどの一間もそうだった。この部屋は、便所とシャワールームとの間仕切りもなく、ほとんど囚人の独房で、家賃は月一〇〇ドル。そのころ働いていた日系ペルー人の新聞社の給料が一八〇ドルだったから、夜はバイトをする始末だった。
 ところで、外国で暮らしていると無性に銀シャリとみそ汁なんかが恋しくなってくる。ぼくも、そんな「発作」に襲われたことが何回かあった。
何度も、電気釜を買おうと思った。が、最初の一年は本当にびんぼうで、買えなかった。メシといえば露天のハンバーガーか、貧民街の定食屋。しかも1ドルにも満たない定食からわざわざスープをはずしてもらって、無理やり値段を値切るという状態だった。普通は、スープを抜いても値段を下げない。
 「たらふくコメの飯が食いたい!」
 それは願望を通り越して、夢に近かった。
 ペルーでは、コメをよく食べる。インディカ米というパサパサした長粒種と、多少もっちりとした大粒種のカリフォルニア米、またはこれらを交配した米が売られている。
 肉や魚をスパイスたっぷりに調理するペルー料理は、コメとよく合う。コメは百五十年前に中国人移民が持ち込んだ。醤油もある。これも中国人によるといわれるが、旨い醤油は日系人が作ったものが有名。現在のトップメーカーは味の素。日本では見かけないが、ペルーでは味の素ブランドの醤油が作られている。そして、肉も安い。
 ジャンク屋から電熱器とフライパンで、ためしに牛肉を醤油で炒めたところ、部屋が煙だらけに。しかも隣家(普通の民家)が中庭で若鶏を飼育しているため、そこのハエがいっせいに飛び込んできて、悲惨な状態になった。流しもないから、皿もまともに洗えない。もちろん、米なんて研げない。
 電熱器での調理に見切りをつけたぼくにとって、安い電気湯沸し器だけが唯一の家電になった。
 首都リマ市のセントロという低所得者層が占める旧市街で買ったもので、定食二回分くらいの値段だった。いちばん安い製品で、プラスチック製。それも強化プラスチックとかではないので、沸騰すると有害物質が溶け出しているんではないか? と思われる品物だった。
 この電気湯沸し器、一回使うと、錆が出た。電熱線に直に水が接触しているわけだ。一度、コンセントを差し込んでいるときに指を突っ込んだら、さすがにビリビリっときました・・・。
 リマ市の冬は寒い。セーターは必需品だ。そんなわけで、この電熱器で湯を沸かし、コーヒーを何度も飲んだ。けっこう役立った。錆も相当飲んだような気もするが。
 新聞社の広告係の二世のオバさんが、この電熱器の上級品を使っていた。胴体は金属製で、ニクロム線と水が直接接しないから錆も出ない。日本語があやふやな彼女の「オオタさん(ぼくのこと)、おちゃちゃしましょ」という言葉が、妙にいまでも印象に残っている。
 そうこうするうち、日系人と結婚することになった。で、多少広い部屋へ。もちろん台所付きだ。そしてついに買ったのだ。電気炊飯器を。
 その電気釜の操作はえらく単純で、ひとつしかないスイッチを押して「炊飯」。できあがったらスイッチがはねあがって「保温」。そのころはまったく気付かなかったが、形状は五〇年代の電気釜とそっくりだった。
 それは、ともかく。
 炊きましたよ。
 そして、ほかほかのごはんを食べましたよ。おかずなしのストレートで。
 その感動といったら・・・。
 ミキサーも買うことにした。で、またしてもセントロへ(新聞社がここにあったため)。
 五〇年代の日本でのエピソードなどは知らなかったが、オスター社というのはペルーでは知られたブランドだ。ちょうど新聞社の門を出てすぐ左隣の民家で、ミキサーを売り出していた。聞けばオスター社製という。値段も、相場の三分の一だ。中古ではないという。
ところが、店のおばちゃんの挙動が変。陳列棚には、下半分のモーター部だけがあって、店の奥の工場らしき騒音のするところから、上半分のガラス製の撹拌(かくはん)部分を何個か持ち出してきて、それぞれをはめ込み、「うまく収まった」一組を差し出したわけだ。これってつまり、ペルーお得意の海賊製品?
 一抹の不安を抱え、いざ使ってみると、モーター部と撹拌部の合わせ目から水が漏れるわ、モーターから突き出した軸棒からは黒い油が染み出るわの有様だった――。
 なお、誤解を避けるために言うと、ペルーで昔のプロダクトが何十年も使われているわけではない。現在も「あのころ」のままのデザインで生産されているということ。
 そして、新品を買うより修理したほうが安い。つまり、大量消費社会ではないのだ。大量消費社会では、消費をあおるためのモデルチェンジやデザインの複合/再生産がたびたび行われる。ペルーでは、まだそこまで行っていない。だから、古いものにマイナスの価値観が負荷されない。八三年に発売された初代のファミコンも「ニンテンドー」という名で、立派に流通している。
 ところが、インターネットが普及し、ペルーもいやおうなくグローバル化の波に飲み込まれている。ゲームでいえばプレステも入っているし、アニメのオタクも増加して「エヴァンゲリオン」はリアルタイムで楽しまれていた。
 「懐かしい家電」も、近い将来すがたを消すのかもしれない。

ミリオン出版発行、「GON! special ガタリ」Vo.01(創刊号で廃刊)掲載

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(墓43)ペルーでは、どんな日本人(男)でもモテモテ

むかし、
「あんたもね、女子校の先生になりなよ。そしたら、あんたみたいのでも、ぜったいモテる」と、女子校出身の友人が断言した。
「ほんとう?」
と、たぶん目を輝かせながら聞き返すと
「当たり前よ。周りは女だけでしょ、どんな男でも『良く』見えるんだから。あんたの性根が腐ってても、分かりっこないわよ」。
…そうだったのか。
だが、学校から一歩外に出れば、いくらでも男なんているだろうに…、と素朴な疑問が頭をよぎったものの、思い当たる節もある。

私が通った高校は男子校だが、そこでも似た状況はあった。例えば、唯一の女性である図書室のオバチャン(一応、教諭)に異様な人気があったりしたものだ。
みな、異性に対するまっすぐな憧れや妄想を持っていた。なお、ゆがんだ欲望のなせるわざか、部活の先輩(当然、男)に「想い」を打ち明ける人物もいたが、特殊なケースと言わざるを得ない。

さて、ペルーにいると、おおかたの予想通り「モテる」。以前、急に親しくなった女性に「日本に行くためにつき合いたいのか」と(失礼な)質問をしたら激怒されたが、彼女はその後すぐに日本に出稼ぎに行ってしまった。今思えば「俺を日本行きの切符にしたかったのか」と言えなくもないが、本当のことは良く分からない。

が、今なら言える。
「いやあ、日本人なんて、日本に行けばいくらでもいますよ」。
ペルーにいる日本人は、女子校(男子校)の男(女)の先生のようなもの…?
ちゃんとした「姿」が見えているのかな、と、心配だ。
それでは皆さん、どうぞ良い週末をおすごし下さい。

『ペルー新報』1998年3月21日掲載

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(墓42)ペルーの女子バレーを育てた日本人/加藤明/彼の墓の変遷

 ペルーの女子バレーチームの大恩人として、いまでもペルー国民から親しまれている故・加藤明。その墓は日本とペルーに建てられたが、ペルーの墓はその後、有為転変の運命に翻弄されることになる。
 加藤明は往年の名選手だ。生まれは昭和8年、神奈川県。慶應義塾大学のバレーボール部で活躍し、同30年卒業。実業団の八幡製鉄【ルビ:やわたせいてつ】(現・新日本製鉄)のバレーボール部に入り、5年間の選手時代には日本代表にも選ばれた。
 35年に現役引退後、母校・慶応大バレーボール部の監督に就任。指導者として、さらに輝かしい戦績を積み重ねる。
 請われて、ペルーの女子ナショナル・チームの監督に就任(昭和40年5月4日、リマ着)。まったくの無名チームを鍛え上げ、同43年の五輪メキシコ大会ではペルーの女子代表を3位に導いた。同54年に監督を引退。その後もリマ在住。
 1982(昭和57)年3月20日、リマ市内の病院で死亡。享年48歳。彼の死後、ペルーで初めて行われた女子バレーボール世界選手権(1982年)で、ペルーは決勝において日本を下し、念願の初優勝を飾った。この瞬間をテレビで見た世代は「生涯忘れない」と口々に語る。ペルーではもはや伝説だ。
 80年代は、ペルーの女子バレーの黄金時代であり、「アキラの時代」と讃えられている。ペルーでもっとも尊敬される日本人は、いまも野口英世博士と加藤明だ。けっして、勲章や名誉博士号を目当てに多額の寄付を送るどこかの宗教団体の代表ではない。


90年代後半に崩れ、2000年に改修計画が持ち上がった加藤明の墓

 加藤明の墓は、リマ市旧市街のエル・アンヘル(天使)墓地の正門をくぐり、数十メートル歩いた場所に「あった」。墓石は82年、ナショナル・チームのメンバーやOGたちが作ったものだ。
 本来は、黒い御影石で作られた台座の上に、鉄の棒で支えられた大理石製の白いバレーボールが乗った姿だった。ところが歳月の経過とともに、鉄の棒の腐食(錆)が進む。2000年初頭に取材したところ、この鉄棒は折れてしまっており、ボールは行方不明という無残な姿になっていた。そのとき、墓の管理人は「98年だったかな、ついに鉄棒が折れて、ボールが落下したんだよ」と証言した。「ボールはどこへ行ったか分からない」。
 当時、大理石製のバレーボールは「盗まれた」といわれていた。ペルーでは墓石や墓碑銘が盗まれ、再研磨されて売られることは「普通」だからだ。鉄格子がはめられている墓があるのは、そのためだ。しかも、エル・アンヘル墓地は一時期、あまりに治安が悪く、墓参者が激減していたほどの場所である(現在は、かなり改善された)。
 そうこうするうちに、ペルー日系人協会顧問のヘラルド・マルイ氏が「この際、新築する日本大使公邸内に、アキラ・カトウの墓を移転しよう」と仰天発言を始める。彼は、フジモリ氏が大統領に就任する10年も前に、日系人初の閣僚(スポーツ庁長官)になった人物で、日系社会の元老だ。
 96年~97年の日本大使公邸占拠人質事件のあと、同公邸は移転・新築となったが、その庭に墓を移転しよう、というのだ。しかし、いくらペルーの英雄とはいえ、一邦人の墓を公邸内に建てるのは、日本人的な感覚からすれば想像を絶する発想だ。だが、現地側にとってみれば、加藤明はそれだけの人物であった。
 結局、2000年11月3日、エル・アンヘル墓地の墓はリマ市郊外の公園墓地に改葬する一方、一般の「参拝」用として、大使公邸の眼前の緑地帯に、加藤明の記念碑が建てられた。これは厳密にいえば記念碑(モニュメント)だが、元々のエル・アンヘル墓地の加藤明の墓も、遺骨の一部だけが納められたといわれ、モニュメント的な色彩が強かった。モニュメントに献花することは、世界各国で通常おこなわれることであり、その行為と墓参の境界線は、あいまいである。
 一方、エル・アンヘル墓地の古い墓のほうは、「遺骨の一部」が掘り起こされた様子はないが、台座はさらに削り取られ、いまでは墓地の管理人や関係者しか、その石の塊が加藤明の墓であったということを知らない。
 加藤明の名は、ペルーで永遠に語り継がれるべきだ、という人がいる一方、「いまの子どもたちは、アキラ・カトウの名前を聞いたことはあるかもしれませんが、どれだけの偉業を成したか、知っているとは言い切れません」(バレーボールの元選手)。
 アキラ・カトウの名が、風化しようとしている。それは、ペルー側だけの現象ではない。新しい記念碑の建立について、現地の日系人向け新聞は報道しなかった。在ペルー日本大使館の要職にある人物でさえも、2006年の段階で「加藤明の墓は、いまもエル・アンヘル墓地にあるんでしょ?」と公言していた。
雑誌「SOGI」2006年(94号)掲載


【写真】2000年11月に落成した加藤明記念碑(リマ市サン・イシドロ区ハビエル・プラド通り22番地)

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(墓41)フジモリ派の実業家、ウィンテル兄弟出獄へ

カナル2(フレクエンシア・ラティーナ:2チャンネル)の元取締役で、フジモリ3選時にフジモリ側についたメンデル・ウィンテル氏が近く出獄されると、セサル・ナカサキ弁護士が発表(1月末の時点)。メンデル氏の兄弟のサムエル氏もおなじく出獄し、ともに自宅軟禁となる。

彼らはフジモリ失脚後、「フジモリに有利な情報操作を行った」などの理由で、モンテシーノス氏元大統領顧問と同様に、まったく裁判を受けることなく収監されていた。未決囚の収監は2年が通常であるが、彼らの収監期間は、すでに3年以上。このため、裁判所によって今回の措置となった。

【エル・コメルシオ紙より抜粋】
某団体の会報用に書いた。2004 03/02記
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(墓40)ペルーへの海外送金の代行業者に一審判決

ペルー・エクスプレスの日本側従業員に一審判決

2003年11月、不正な海外送金を行ったとして、銀行法違反の疑いで神奈川県警に逮捕された「ペルー・インター・エクスプレス(旧ペルー・エクスプレス)」=神奈川県川崎市=の照喜名美和(28)、ネリー=アイダ・ヒガ=クワエ(56)、アキラ=マグノ・アラカキ=ピネド(28)の3容疑者に対する一審判決が13日、横浜地裁川崎支部であり、菱田泰信裁判長は「被告人らの犯行は悪質というほかない」としてそれぞれ懲役1年6か月(執行猶予3年)を言い渡した。被告3人は、「罪を反省している」という。控訴はしないという。
判決では「本件の主犯格は、ペルー国内にいる関係者」とし、「被告人らは従属的な関係」にあったとして「本件地下銀行の経営者としての責任を負わせることはできない」としている。
同社は、ペルーにおいてはペルー経財省の認可を受けた送金業者。銀行ではないが、ウエスタン・ユニオンと同様の存在だった。また、過去に摘発された一連のペルーの“地下銀行”と同様、罪とされた送金業務を幇助した日本の都市銀行の刑事責任はまったく追及されなかった。【太田】

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(墓39)田毎の月(たごとのつき)

しんぽう週末コラム

色々な宗教や団体が世界をより良く変えようと様々な努力を続けている。
で、どれが「正しい」といえるだろうか? どれもが正しいように見える。懐疑的に観ればどれもが嘘や方便を使っている気もする。だいたい、なぜ、こんなにたくさん宗教が存在するのだろうか? どれもが真理ではないから? と意地悪く思うこともできる。
時に、「カミ」の存在を感じ、感謝したくなる。でも、もしその時に「あなたの言うカミは、私たちの神だ」といわれたら、おそらくその人々のことばに対して、嫌悪するだろう。
カミは真理かも知れないが人間が理解できる存在ではない。
ましてや特定の人々の病気を治したり、奇跡を与えるなど神の知るところであろうか。そんな贔屓をする神は、私のカミではない。そんな神はなんとも不公平で偏狭だ。そういう神も、在るのか? それも分からないことだ。
◎…◎…◎
ところで、月はひとつしかないということは常識であるが、「たった一つには見えない」ことも事実である。
夜、水田のちかくを歩いたことがある人は、知っている。
お月さまはひとつだが、そこに水田がたくさんあると、田んぼの数だけお月さまが出現する。それぞれの田にお月さまが写るからだ。これを田毎の月、という。
田毎の月は複数だが、きっと同じ月を映し出す。
真理も同じか。たったひとつの真理でも、映し出されるもの(媒体)の数だけ、姿を現わすのだろうか。
田んぼの数だけ存在する無数の月のなかから本当の月を探し出そうとしても、答えはない。
……それでは皆さん、よい週末を。(O)
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(墓38)女性刑務所で美人コンテスト!? ペルー

たぶん、この光景は「ラテンならではの明るさ」などと形容されるのかもしれない。

9月30日、南米ペルーの首都リマ市で「春の女王」を選ぶミスコンが開かれた(リマは現在、夏)。会場が一風変わっていることと、候補者の肌の露出が控えめな点をのぞけば、まあ、普通のミスコンだろう。

その会場とは「サンタ・モニカ女性刑務所」。候補者たちは、各房から選りすぐられた15人の女性受刑者だ。彼女たちの衣裳は、下はジーンズ。上は水着か下着みたいな服。その上から布裂れを胸に巻いて、おっぱいの形がはっきり見えないように工夫されていた。けれども、ペルーでは、女性のセックス・アピールは、腰まわりのムッチリさ(らしい)。腰で、勝負だ。

受刑者といっても、なかには未決囚もいるのだが、こういうイベントがあって、そして写真つきで報道が許可されるほどオープンで、さらに優勝者の名前もスリーサイズも公表されるところが、なんというか「…スゴイ」。もし同じイベントが日本で行われたら? 「受刑者にも人権があるのよ!」なんてロジックで、フェミニストとかの闘士が猛烈に抗議しそうだ。しかしこのミスコン、ペルーではきっちり「明るい」ニュースになっていた。

ラテンアメリカの多くの国のニュースには「警察記事」という人気(?)ジャンルがある。逮捕された容疑者は、まだ起訴もされる前からフルネームと顔写真はもちろん、ときに家族のことまで報道される(というか、ほとんどさらし者状態になる)のだ。そういう「素地」があるし、意外にも、あまり女性が大事にされない国柄であったりする(女性の交通警官が、交通ルール無視のドライバーにひき殺される事件が絶えない)。

●……●……●
全受刑者810人の頂点“春の女王2003”に見事輝いたのは、ペルー中部ワヌコ地方出身のネイダ=マガリー・アコスタさん(21)。身長1m70cm、サイズは上から90、58、90の「ナイスバデー」だ。

当日の模様を、ペルーの日刊紙『ラ・レプブリカ』が熱く伝える。
「最終選考の段階で、会場はビリビリするような興奮に包まれた。そして、彼女が選ばれた。審査にはまったく支障がなかった。なぜなら彼女は、他の候補者たちも含めた満場一致の大きな拍手によって、女王の座を認められたからだ」。

ミスコンには、「女王」のほか、“がんばったで賞”みたいなマイナーなプレミアも用意されていたが、ネイダさんは「ミス友情」もゲット。二冠に輝いた。

見学に来ていた彼女の母親は、号泣した。彼女も大粒の涙をぽろぽろこぼして、「いちどきに、こんなに幸せを感じたことはないわ!!」と泣いていた。

このコンテスト、じつはインターナショナル。今回の候補者の国籍は、ペルー、ブラジル、スペイン、トルコ、スリナム、アルゼンチンなどで、第二位にはスペイン人、第三位にはアルゼンチン人の受刑者が選ばれた。

サンタ・モニカ女性刑務所には、いろんな国の受刑者がいる。去年はヴェネズエラ人が“春の女王”だった。じつに7年間、ペルー人女性は女王に選ばれなかったらしい。ちなみに日本人女性は現在のところ、服役していないという。

●……●……●
彼女たちの多くが「麻薬の運び屋」として、空港でパクられている。

運び屋の報酬は、日本円にすると60万円~120万円という。これは、町のパン屋で、掌サイズの小さなフランスパンが17万5000個~35万個買える金額だ。刑は重く、現行犯で捕まれば懲役が10年になることもある。

今回“春の女王”に選ばれたネイダさん(21)も運び屋として逮捕された。去年の11月にブラジルへ旅行するとき、空港の検問で、彼女の旅行かばんから2kgの純正コカインが見つかったのだ。「私のものじゃない!! 『ある人』に、『ブラジルの親類へ持っていってくれ』と頼まれただけ」と、主体的な関与を否定している。だが、運び屋行為が処罰の対象なのだ。彼女ももしかしたら、これから10年近くのムショ暮らし。ミスコン優勝の涙は、あきらめの涙なのかもしれない。そういう涙に、一般人だって涙する。ラテンはこういうとき、思いっきり湿っぽい。

●……●……●
ペルー国立刑務局が主催する華やかなイベントの裏側には、悲惨な状況もあるという。この刑務所内部でも、「病気になっても充分な治療が受けられない」とか「刑務所内でのドラッグ汚染」といった問題が渦巻くとか。

“春の女王”になっても減刑はない。明日からは刑務所の現実に呑み込まれる、たんなるひとりの女服役囚にすぎない。
やっぱりちょっと、残酷なイベントだ。

取材協力:大植満(リマ)、川又千加子(リマ)

『漫画実話ナックルズ』(ミリオン出版)VOL12(1月売号掲載)


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(墓37)南米P国 不法脱出の記

この春(2002年)、南米P国へ取材に行ったら、不法滞在になってしまった。以前この国に住んだことがあり、その時の定住者ヴィザ(在留資格)の期限が切れたのだ。
このままでは、出国できない。といっても、査証更新に必要な書類と身元保証人の妻(日系P国人)は日本だ。いったん帰らないと手続きは不可能。しかし、出国できないのだ。
そこで、知り合いのA氏(入管元職員)を買収する。そして、Aさん経由で現役の女性職員Bさんに「特別な出国を」依頼してもらうことに。Bさんが空港の出国カウンターに配置される日を“決行の日”とし、航空券を予定より一日延ばす。
 ところが、その日の昼になって突如、Bさんが入国カウンターに配置されてしまった。Aさんが早々と敗北宣言。

「もうダメ。手の打ちようがない」
しかし、こっちも日本に帰らねばならない。
交渉を粘り、女性職員Bさんに「きょう出国カウンターで勤務するメンバー」を割り出してもらい、そのうちの誰かにワイロを渡し、出国させてもらう計画に変更する。F元大統領の政権以降、ワイロ摘発が増えて、以前のように“手数料”をもらう人が減っている、という。

一時間後、Bさんから連絡。「手伝ってくれる職員が見つかった」という。ところが、彼女たちが提示するギャラは五〇〇米ドル。この金額は、首都L市の高級住宅街なら5LDK新築マンションの月家賃に相当する。払えるか! そこで、一〇〇米ドルに値切る。値段なんて、あってないようなものだ。
段取りは、こうだ。まずBさんの家まで車で迎えに行き、空港へ送る。そのとき、移動中の車内で打ち合わせよう、と。

夜間勤務のBさんが家を出る時間に合わせ、午後四時に迎えに行くことにする。P国発着の国際便は夜間が多い。自分の飛行機も、深夜一時の便だ。

出発まで時間があるので、旧市街で買い物をした。その帰り、銃撃戦に巻き込まれた。
タクシーに乗り、交差点で信号待ちをしていたら突然、リボルバーを持ったオヤジが左から右へ、タクシーの眼前数メートルを駆けてゆく。そのとき、乾いた銃声。オヤジが目の前に倒れた。ふくらはぎを押さえて悶絶したのも一瞬。すぐに応射を始め、このタクシーの前方右側に回りこみつつ、尻餅をつきながら、逃げていく。

左前方からは、数人の警官が銃を水平撃ちしながら突っ込んできた。警官たちもタクシーを盾にがんがん発砲する。市街地なんか関係ない。交差点にはわれわれのタクシーだけ。このタクシーを挟んで双方が激しく撃ち合うのだからたまらない。
それ以上は、身を伏せたので見ていない。タクシーの窓は当然、木っ端微塵に砕け飛んだ。堅牢なヴィートルの斜体には弾がめり込んだ。撃ち合いは見たことはあるが、そのなかにいたのは初めてだった。

タクシーの運転手のオヤジはというと、すっかり呆然。とにかくエンジンをかけさせ(運悪く、切っていた)、交差点を渡るとクルマを飛び降りて、現場へ向かう。どうやら、何発もの弾を食らったであろう犯人のオヤジが担架に載せられ、RV車のパトカーに積み込まれるところだった。

生き延びた感動に浸る余裕もなく、Aさんと落ち合い、彼のクルマでBさんの家に向かった。クルマに乗り込むなり、Bさんは憤慨している。
「日本の態度は、いただけない」
いきなり、日本批判だ…。
「日本とわが国には査証相互免除協定があるのに、P国人の観光目的の入国でさえ、日本側はヴィザを要求する。多くのP国人が苦しんでいる(のに、なんであんたを助けなきゃなんないの?)」

とっさに、「さっき銃撃に巻き込まれたよ」と切り出すと、会話は一気にそのことで盛り上がった。Bさんも「とりあえず文句言いたかった」だけのようで、査証免除の協定を日本政府が無視していることには触れなくなった。

そして、空港着。駐車場に停車する。
Bさんが職場に向かう。彼女は、出国カウンターをチェックし、「協力者Cさん」のカウンター番号、Cさんの容貌の特徴を空港内部からAさんの携帯に電話するのだ。
待つことしばし。
一週間の取材やアクシデントによる疲れから、体が眠たくなる。意識だけは妙に冴えていたが。Aさんも、多くを語らない。
そして、Bさんからの電話。
「Cさんが何番のカウンターにいるか分からない。ただ、彼女だけが上着を着ていないって。白のブラウス。髪の毛は栗色のロング。私も入国カウンターに向かうので、これ以上は電話できない。さよなら」

 この情報だけが、頼りの綱だ。Aさんに例の一〇〇ドルを渡し、別れを告げる。
ところがまだハードルは残っていた。航空会社だ。フィックスのチケットの日付を変えたために、違約金一〇〇ドル少々を「払ってくれ」という。でも、旅行会社に立て替えを依頼しておいたのだが? 後日、日本から送金するから、と。すでに文無しだったのだ。しかし、「そんな連絡は受けていない」。
二秒ほど、放心する。懸命に意識を引き戻すと、そういえば財布に日本の消費者金融のカードが入っていることを思い出した。マスター・カード付きのヤツだ。結果は、意外なほどスムーズに払えた。国外でカードを使ったのは、初めてだった。

そして、空港税を払い、いざ出国カウンターへ。
するとそこには、栗色のロングで、上着を着ていない女性職員が二人!
 一人はベストを着ていて、ブラウスは白。もうひとりはベストなしでブラウスはクリーム色。髪の毛の色は二人とも同じ。考えていても仕方がないので、前者のカウンターに並ぶ。念のため、その女性に熱い視線を注ぐが、「衆人環境のなかで目が合った二人」程度のリアクション。あれ?

 クリーム色のほうを見つめると、視線を合わせようとしない。もしやと思い、彼女のほうに並ぶ。順番が来ると、
「あんた、間違えたわね?」
と無表情に、ボツリ。Cさんだ! ところが、彼女がパスポートを機械に通すと、すぐに上司と思しき男性職員がすっ飛んできた。
「この列からエラーが出たぞ!」
もう、今度こそおしまいか…。

Cさんは「知らぬ」「存ぜぬ」の一点張り。そんなんで言い逃れできるのか、と冷や汗が噴出する。が、上司はあっさり引き下がる。“雰囲気”を察したのかもしれない。要するに、彼も“同業者”なんだろう。Cさんは、
「怪しまれるから、ちょっと待って」と、ことさら作業を遅くする。そしてついに、彼女は出国スタンプに手を伸ばし、それをつかみ、力強く「ダーン」と、パスポートに叩きつけた。

 ところが、「まだ」あった。
 “ヒューマン・ミス”とかで、定時を過ぎても飛行機に搭乗すらできない。
もはや、なす術なし。もし、フライトが延期になれば、次の便は翌日だ。もう一回、入管職員の買収をしなければならない。まあ、それもいい。腹をくくって、飛行機が出るのを待った。

午前四時をまわり、定刻を三時間遅れた飛行機は、やっとP国を離れた。
「もうこれ以上のトラブルはご免だ」
そんな思いが、呪文のように頭の中でぐるぐる回っていた。

****
南米P国。人は「ここではどんなことでも起きるよ」という。
バスが事故を起こして乗客が死んでも、満足な保障などはない。殉職軍人の恩給さえ切り捨てられる。教会に飾られた宗教画や装飾品でさえ盗まれる。憲法も簡単に変わる。裁判もワイロ次第でどうにでもなる。国外へ亡命した元大統領が帰国して返り咲くことも珍しくない。この国で確かなことは、サッカーが国民スポーツだってことくらいだ。
多くの日本人にとって、きわめて異質な文化。でも、だからこそ、オモシロイ。


『実話GON!ナックルズ』Vol.8(2002年8月10日号)掲載

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