2012年10月2日火曜日

(墓94)祈りは生者のためにも~被災地取材で感じたもの~

祈りは生者のためにも~被災地取材で感じたもの~

太田宏人


 祈りなき埋葬…東松島市



 このたびの東日本大震災で被災した皆様に心よりお見舞いとお悔やみを申し上げます。東北や北関東の太平洋岸の被災地が復興し、被災した方々にいつの日か笑顔が戻ることを心より願うとともに、被災していない私たちにできることを微力ながら、続けてまいる覚悟です。


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 (平成23年)4月3日、宮城県東松島市と石巻市の知人へ物資を届けました。

 ちょうど、仙台市内の知り合いの僧侶が、石巻市の避難所になっている寺院へ物資を配送するというので、便乗させていただきました。ですので、各地の取材もさせていただきました。仙台から石巻へはバス路線がありましたがバスでは細かい移動は難しかったので、この僧侶に感謝しました。

 私たちは、ワゴン車に救援物資を詰め込みました。知人の僧侶は、「こんな少量で、単発の援助では」と恐縮していましたが、個人の力は限られています。だからこそ、皆が力を合わせなくてはいけないのです。それほど恐縮する必要はないと思いました。

 また、知り合いからの心のこもった救援物資には、それだけで意味があると思います。

 私たちは、まずは仙台市若林区荒浜地区を視察しました。皆さんがテレビで見たのと同じような、壊滅的な光景が目の前に広がっていました。ただし、あの腐敗したような臭いや、ヘドロ、乾燥したヘドロが舞い上がり、それを吸い込んで感染症を起こすというようなことは、その場に行かなければ分からないと思います。

 その後、東松島市が震災犠牲者を土葬している同市の矢本リサイクルセンターへ向かいました。ここでは、焼却処分場の跡地に、約千体の埋葬が可能なスペースが造成されたと聞いていました。

 到着後、知人僧侶は焼香所で読経をし、私は写真を撮りました。

 同市の土葬は3月22日に開始されました。火葬場の被害、燃料不足と死者の多さ、安置遺体の腐敗の進行によって東北の太平洋岸一帯の火葬能力は限界を超えていたのです。断腸の思いに堪えながらの土葬でした。

 墓地に足を運び、私は絶句しました。

「なんだ、これは?」

 この現代の日本で、土葬の墓穴を、しかも一面に広がる墓穴を目の前に突きつけられる事態が来ることを、震災前に誰が想像しえたでしょうか。戦地に急遽つくられた兵士の墓地のような錯覚さえ覚えました。穴を掘り、棺を運ぶのが鉄兜に軍服姿の自衛隊員だからでしょうか。ていねいな埋葬を続ける隊員たちに、ただただ、頭が下がりました。

 穴は、比較的浅いものでした。後日の本火葬のため、掘り出しやすいようにしたためでしょう。

 3日からは身元不明遺体の埋葬が始まりました。腐敗が著しく、これ以上は安置できなくなったためとのことです。埋葬前の棺は自衛隊のトラックに積まれていましたが、明らかな死臭が漂っていました。

 身元が分かった犠牲者の「墓」には木の墓標が立てられています。でも、身元不明者には土が盛られるだけでした。棺の側面にマジックで大書された3ケタの識別ナンバーが、目に焼き付きました。



犠牲者追悼は被災者支援




 震災の翌週、福島県いわき市でも取材しました。沿岸部の惨状や遺体安置所をまわり、ご遺体に手を合わせました。

 眼を見ひらいたお顔は、忘れられません。

 いわき市の中心部に津波被害はなかったが、地震によって、ある寺院の境内墓地では大半の墓石が倒れ、石塔類は大破していました。

 その写真を撮っていると、地元の方が数人、倒れた墓石をかき分けて、墓地を歩いていきます。「墓が無事かどうか見に来た」そうです。

 その数日後、新潟からいわきへボランティアに行った僧侶が「自宅避難している人たちへ物資を届けたら、彼岸法要を何回も依頼され、とても喜ばれた」と語っていました。これほどの激甚災害に遭遇しても、先祖への祈りを絶やそうとしない人々がいるのです。いえ、むしろ激甚災害に見舞われたからこそ、祈りは強くなったのかもしれません。

 このことを、石巻で私は確信しました。

 石巻のある被災寺院を訪れたときのことです。その本堂は1階の梁(はり)まで津波が襲った結果、まるで廃寺のようになっていました。山門は「吹き飛ばされ」、墓地には乗用車が何台も山積みになっていました。なにをどうしたら、このような状態になるのか想像できません。車両や墓地にたまったガレキの下からは何人もの犠牲者が見つかったそうです。この日も、まだ遺体があるかもしれないということで、自衛隊が墓地を捜索していました。

 ある家族がやってきました。住職を見つけ、お互いに無事を喜び、家族の人々が住職に話しかけました。彼らの家も津波被害にあったのですが、なんとか生き残りました。でも、寺に預けた遺骨が心配だったので見に来た、というのです。

 幸い、遺骨や位牌は流出しませんでした。それを聞いて、彼らは安心して帰っていきました。

 死者へ想いを寄せることや祈りが、生者に安心を与えるのです。私は、それをこの目で確かめました。

 津波で壊滅した墓地の整理、祈りの場としての寺院の回復など、当然のことながら後回しにされています。もちろん、ライフラインの復旧、医療や食料、仮設住宅確保をはじめとする被災者支援は長期にわたって最重要事項であり、それ以外の押し付け援助を強弁するつもりは微塵もありません。

 しかし、回向や供養、祈りや葬送といった分野に対する支援も、被災者の方々が安心して生きていくために、不可欠な要素といえるのではないでしょうか。


※埼玉のある葬儀社の会報に平成23年に書いたものです。










2011年12月16日金曜日

(墓93) 消し飛んだ「葬儀不要論」

「連日、何件もの葬儀をしています」
 石巻で被災した知人僧侶は語った。
 震災からまもなく6ヶ月。だが、犠牲者の葬送はなおも続いている。
 夏を迎え、各地で仮埋葬した棺の掘り起こしが開始されたことが大きい。掘り起こしの現場は強烈な腐臭が漂い、棺は朽ちている。作業員たちは手作業で棺を掘り起こし、棺から遺体を取り出し、ていねいに洗浄してから新しい棺に納め、火葬場へ運ぶ。
 火葬後、葬儀を行うのだ。
 これまでは踏ん切りがつかずにいた遺族たちが、肉親の死を受け入れ、葬儀を依頼しているケースもある。
 通常の葬儀とは違って通夜はなく、葬儀だけというパターンが多い。葬儀後、通常なら納骨となるわけだが、墓地が被災していれば納骨は不可能だ。そこで、遺骨は寺に預けられる。
 昨日(9月1日)、石巻のある被災寺院の墓地で瓦礫撤去の作業を手伝った。その時見たのだが、骨箱を胸に抱いた喪服姿の人々が何組か、寺を訪れていた。
 その寺院の本堂は1階の高さまで津波に襲われたが、躯体は残った。一方、墓地は絶望的な被害を受けた。
 4月の情景は壮絶だった。近くの製紙工場から流出したパルプが水を含んでぐちゃぐちゃになり、汚泥と混ざり合って、地面やなぎ倒された墓石に堆積。その上に、材木や家財道具、自転車や生活用品が散乱し、仰向けの自動車や魚が転がっていた。
 数多くの人々がボランティアでの作業を続けた結果、現在では見違えるようにきれいになった。だが、墓石は倒れたまま。いまだ納骨はできない。火葬を済ませた檀家たちは、寺に遺骨を預けている。
 骨箱を寺に預けて寺から出てきた人たちは、安堵の表情だった。
 被災地で、何度もこの表情を見てきた。「どんな形でもいいからせめて葬儀を出してあげたい」と語った人もいた。その人の家族は行方不明だった。
 3月や4月は、棺や野位牌などの葬具も不足していた。棺を自作した葬儀社もあった。遺族のなかには着の身着のままの服で葬儀に参列した人もいた。
 それでも、葬儀をやめようとか葬儀は不要など、誰も言い出さなかった。
「そういう声を聞いたことがありません」。石巻葬儀社の太田かおり専務は語る。太田さんは、津波で父を亡くした。
 父の葬儀はまだしていない。「地域の方々の葬儀が先です」。それが父の遺志と思っている。

消し飛んだ「葬儀不要論」

 震災前に「葬儀不要論」なる暴論がまかり通っていた。
 だが、いまや被災地からそのような声は消し飛んだようだ。平時の戯言でしかないことを、震災が教えてくれた。
 葬儀だけではない。墓や位牌、仏壇といったものを媒介にした先祖供養も同様だ。先祖供養などしても、生存は保障されない。しかし震災後、墓を見に行った人は多い。先述の太田さんも自転車と徒歩で墓の安否を確認しに行った。
 3月17日、決死の地上放水が福島第1原発で開始された。この日、自主避難によってゴーストタウンのようになっていたいわき市内を取材していたのだが、ある寺院に立ち寄ると、地震によって多くの墓石が倒壊していた。そこに、何人かの人がやって来た。「墓が心配なので」という。
 当時、放射能の恐怖は未知数だった。食料も水もガスもない状態で、それでも墓を心配する被災者がいた。「墓不要論」も、もはや存在しないようだ。
 4月、石巻の別の寺院で、ある家族が寺を訪ねてきた場に居合わせた。「寺に預けた位牌が心配で見に来た」。そしてその無事が確認されると、彼らは安堵の表情を浮かべて避難先へ帰っていった。
 死者への祈りが、生者の明日へのエネルギーになっている。そう、確信した。
 同じような光景は、別の場所で何度も目にした。
 「葬儀回帰」「供養回帰」の動きは、他の地域へも波及している。都内のある業者は、「震災後、葬儀に対する遺族の思いが以前と違う。葬儀をあげることへの真摯さを感じる」と語っていた。
 葬送の現場に立ち会う者は、葬儀不要論などは「死ぬゆく自分」のことだけを考えた極論であると知っている。いや、葬儀不要論に踊らされた人々のいったい何人が、真剣に「死」を考えたのかも怪しい。
 被災地での葬送に接し、死者と生者がどのように関わっているのか、その現場を見れば、納得する。葬儀や先祖供養は、決して死者のためだけに行われるわけではない。

(2011年秋・某誌に指定された文字数で書いたら、直前に大幅に削られて、今読み返してもおかしな記事になっていた。そこで、削られる前のものを掲載する)

2011年4月9日土曜日

(墓92) 広島ペルー協会/ペルー慈恩寺で記念法要


日系校児童ら、先祖供養に感銘

 民間の国際交流団体である広島ペルー協会(小林正典会長)では設立20周年を記念し、2月後半にペルーを訪問した。訪問団の参加者は11人だった。
 19日(現地時間)には、南米最古の仏教寺院・泰平山慈恩寺(曹洞宗/リマ県カニエテ郡、無住)において、協会が施主となってペルー日系先没移民追悼法要が厳修された。導師は岩垣正道師(曹洞宗/岡山県真庭市毎来寺住職)、脇導師は清涼晃輝師(曹洞宗/同県津山市少林寺住職)が勤めた。
 岩垣師は広島ペルー協会と縁があり、平成11年にも協会の訪問団とともにペルーを訪れ、慈恩寺で法要を営んでいる。
 今回は、リマ市の瑞鳳寺(ペルー曹洞禅グループ)の僧侶らは不参加だったが、広島ペルー協会がチャーターしたバスにリマ市のペルー広島県人会(フェルナンド・カワグチ会長)、ペルー岡山クラブ(エレナ・ニシイ会長)の会員多数が乗り込み、随喜した。また、リマ市の日系校であるヒデヨ・ノグチ校(フアナ・ミヤシロ校長)の初等部、中等部(日本の中学、高校に相当)の児童生徒のほか教員、リマ市に在住する日本人有志はじめ、地元カニエテの日系人も参加。慰霊の心と温かい雰囲気に満ちた法要となった。
 法要はヒデヨ・ノグチ校の児童生徒による内陣への献灯式から始まった。続いて導師・脇導師の入堂、追悼文、散華の後に般若心経の誦経があった。日本語が読めない参加者のためにローマ字の振り仮名がついた経文が配られた。参加者は、たどたどしい口調ながらも僧侶の読経に声を合わせた。
 焼香ののち、岩垣師は「先駆者が築いた慈恩寺を皆さんは護ってきた。先駆者たちが残した『先祖を敬う』という種を皆さんが咲かせているのは素晴らしいこと。これからも、慈恩寺を護ってください」と法話を述べた。
 各県人会の参加者からは「散華の意味は?」「なぜ焼香をするの?」などの質問が相次いだ。ヒデヨ・ノグチ校の生徒は、「日本人は、死後も子孫と交流するということを実感しました」と興味深そうだった。ミヤシロ校長によると、その後数日、慈恩寺法要の話題で子供たちは盛り上がっていたという。
 法要に先立ち、同郡内のカサ・ブランカ日本人墓地およびサン・ヴィセンテ公営墓地内の日本人慰霊塔で岩垣師を導師とする法要が営まれた。南米の灼熱の日差しの下、先駆者を弔う経文が朗朗と読上げられ、参列者の焼香の列が続いた。
 慈恩寺が位置するカニエテは、首都のリマ市から南へ約150キロの距離にある。

開山堂が完成

 平成22年8月22日、本堂に隣接する事務所を改装し、開山および歴住を祀る開山堂が完成した。費用は曹洞宗宗務庁が負担した。
 堂内には開山の上野泰庵師(在籍1907~17帰国)、第二世・斎藤仙峰師(1917~19遷化)、第三世・押尾道雄師(1919~27帰国)、第四世・佐藤賢隆師(1926~35遷化)、第五世・新開至賾師(1951~53遷化)、第六世・清広亮光師(1961~92遷化)の遺影および位牌のほか、第四世の佐藤師の後任として赴任するも、カニエテを去ってリマ市に宗門公認の中央寺を開いた中尾證道師(在任1935~41帰国)の位牌も祀られている。遺影は、2007年の慈恩寺創立100周年に際し、慈恩寺有志の会が寄贈したものである。【報告=太田宏人】


写真説明
法要後の記念撮影(慈恩寺本堂)

(墓91) 風評被害でゴーストタウン化 いわき市、弔いを必死で守った葬儀社社員






 17日、福島県いわき市を取材した。
 薄磯・豊間地区がとくに甚大な津波被害を受けた。いわき市の市街地から両地区へ向かう道の応急処理は終わっていたが、ところどころに亀裂や陥没があった。大型トラックが道路の路面ごと陥没しているなど、地震の爪あとはいたるところで目にした。
 記者は東京からガソリン持参で、原付バイクで向かった。ガソリンの購入が難しいことは分かっていたので、消費量の少ない方法を選んだ。
 薄磯北街などの集落は壊滅していた。津波の破壊力は、海沿いの人々の生活と人生を根こそぎ潰してしまった。そのほかの集落も、建物や車が流され、道路の両側にも瓦礫が積み上げられていた。
 同市の市民で現在までに分かっている死者は約150人。このほかにもまだ行方不明者が多数いる。しかし、遺体の収容作業は進まない。作業に当たる自衛隊や警察の人員不足が原因だ。ライフラインの復旧の目処が立たず、余震も続いて建物の倒壊の危険もある(市内の各所の地価にはかつての炭鉱の行動が無数に走っており、地盤がもろい)。宿泊施設はなく、放射能による風評によって食料とガソリン、日用品や医薬品などの供給が止まってしまった。これではボランティアは受け入れられない。いわきはまだ、復興期ではなかった。
 市の中心部は完全にもぬけの殻である。沿岸部以外の中心部等では市民が地震後も住んでいた。ところが市内の一部が屋内退避対象地域に指定されたために風評が発生。物流業者がいわき市を嫌って、物資が来なくなった。店は軒並み閉店した。「東京電力が撤退した。自衛隊が冷却作業をやっている。これはもうだめなのではないか」という噂が市内を駆け巡った。
 極端に食料とガソリンが不足し、病院や行政の機能も止まり、32万人の市民のうち、大半が脱出した。
 ワゴンタクシーに布団や衣類などを詰めて市外へ逃げる家族がいた。「お金などいくらかかってもいいから、いわきから出たい。ガソリンがないので車は出せない」という。
 人のいないガソリンスタンドの前には数キロの車列があった。「明日、ローリーが来ることを信じて待つ」という。来ないかもしれない。営業しているスタンドには、もっと長い順番待ちの車列があった。最後の人まで買える保障はなさそうであった。
 沿岸部で発見された遺体を、市内3か所の遺体安置所へ運ぶのは警察の仕事だが、警察車両でさえガソリンが尽きていた。ある警察官は、「もう限界です。遺体を運べません」ともらした。

遺体をどうすることもできない

 市内の大手葬儀社に勤務するA氏は、震災発生後からボランティアで遺体の発掘や運搬に全身全霊をかけてきた。だが風評被害で燃料がなくなった。社長の判断で、勤務は志願制になった。最後まで残った4人のうち、A氏はリーダーだった。
 この葬儀社では一時期、身元が分かった遺体を30数人預かっていた。火葬の順番待ちである。このほか、自宅に安置した故人が何人かいる。
 しかしもう燃料がない。自衛隊も遺体の捜索を一時中止すると聞いた。警察も根を上げている。火葬場の稼動も止まるという。
「放射能で避難命令が出たら、うちで預かっているご遺体をそのままにして逃げることはできません」。実際、いわき市の一部が屋内退避に指定されたときも、突然だった。市にも事前通告はなかった。
 A氏たちは、預かっている遺体をとにかく火葬にし、遺骨を遺族に渡すことだけを目標にしてきた。しかし、火葬の数が多すぎてなかなか順番は回ってこなかった。A氏は毎日毎食、家族が炊き出してくれたおにぎりだけを食べてきた。
 A氏たちは18日、最後の7人の火葬を終えた。
 この遺体のうち、二人は祖母と嫁だった。祖父と孫は、まだ行方不明だ。残りの二人を見つけ、火葬にしてあげたかった。それができないことで、A氏は自分を責めていた。
 水が充分にないので、遺体を洗うこともできなかった。ほとんどの遺体が損傷し、顔には泥や砂、血糊がついていた。それでもできるだけ綺麗にして納棺した。僧侶は逃げたか被災しているので、読経がない。非常事態なので葬儀は後日に厳修することになるとしても、「せめて読経だけは…」と、僧籍のあるA氏はすべての火葬で、経を唱えた。
 A氏は疲弊しきっていた。絶望感と後悔がこちらにも伝わった。
 18日で、この葬儀社もすべての業務を終え、一時徹底する。「食料もなく、放射能が怖いからです。今残っている我々の家族は市内に住んでいます。子供たちを被爆させたくない。…人間ですから、自分もまだ死にたくないです。しかし、こんな中途半端にやめるのなら、はじめからやらなければよかった」と、A氏は悲痛な声を上げた。
 写真は断固拒否。「こんな私には、新聞に載る資格はないのです」。しかし、彼を非難できる人間などいるのだろうか。
 自身も放射能の恐怖と戦いながら、制約された条件下で、必死に人々の弔いを守り続けた人間が、ここにいる。
 後日、彼からメールが届いた。「私はいわきに残ります。この街が復興することを信じています」。
【いわき市より報告:太田宏人】
週刊「仏教タイムス」3月24日、31日合併号掲載

写真:薄磯地区の惨状/葬儀社には故人の名のない花輪が並んでいた/18日の火葬を待つ遺体(いずれもいわき市内で)

2010年11月6日土曜日

(墓90) ワラ人形の話





ワラ人形の話


 「ワラ人形」と聞いて思い起こされるのは、午前二時の丑三つ時。場所は神社の境内。白装束を着けた人が五寸釘を手に…、 という「呪いのワラ人形」ではないでしょうか?
 でも、呪いだけがワラ人形の役割ではありません。
 たとえば、この写真のワラ人形。これは、同じ家から同じ年のうちに二人の葬儀を出すことになった時、二人目の柩の中に一緒に納めるものです(この人形は葬儀社の社員のお手製。こういうものも作っているのですね、葬儀社では)。
 地域によってはコケシを入れたり、ぬいぐるみで代用する場合もあります。
 なぜこういう習慣があるのかというと、その背景には、同じ家から一年のうちに二人の葬儀を出すと、三人目も「呼ばれる」という民間信仰があるからです。ワラ人形は、三人目の身代わりなのです。
 この風習は昔からあり、明治時代の日本人の生活を記録した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンも「人形の墓」(『仏の畑の落穂』所収)という作品で同様の習俗を報告しています。
 この作品は、三人目の死者を出さないために、人形を納める墓を作る…、という話になっています。
 火葬が一般的でなかった時代の、貴重な記録といえると思います。

 民間信仰というのは、現在の私たちには忘れられてしまっていても、身近なところに残っているようです。たとえば、何気なく行っている葬儀も同様。私たちの民族が昔から受け継いできた素朴な信仰に基づいている部分が、葬儀という営みのなかに息づいています。
By Hirohito OTA

※某葬儀社の企業ブログに投稿したもの。

2010年10月7日木曜日

(墓89) 大日本帝国 幻のコイン「陶貨」

大日本帝国 幻のコイン「陶貨」
文・太田宏人

 靖国の英霊には申し訳ないが、太平洋戦争は無謀だった。日本には資源もないのに、戦線を拡大し続けた軍上層部は阿呆だったとしか思えない。資源の不足は戦力の不足に直結した。長期の消耗戦で必要なのは精神力よりも物資だった。
 戦争を続けるため、一般家庭からも金属が供用された。貨幣用のアルミもなくなり、代用資材の錫も消えた。昭和19年10月、造幣局では苦肉の策として「せともの」で貨幣を作ることにした。これが陶貨だ。
 造幣局には陶器の技術はない。そこで製陶業の盛んな各地(瀬戸、有田、京都)に命じて、数千枚とも数千万枚とも言われる陶貨が生産された。額面は10銭、5銭、1銭の3種類。組成は粘土7割に石とアルミ等の金属を混入した。
 こうして着々と準備が進められていた陶貨だが、流通に必要な枚数が完成する前に敗戦。陶貨は粉砕処分となった。ゆえに、「大日本帝国最後の幻のコイン」と称される。ただし、終戦時の混乱のなか何枚かが流出したため、現在も遺されているというわけだ。
 現物の1銭陶貨は、京都の義歯メーカーである株式会社松風(しょうふう)の本社展示室で見ることができる(事前予約が必要)。松風は陶貨の製造工場のひとつであった。なぜ義歯の会社が陶貨を作っていたのかというと、昔、義歯は陶製だったためだ。
 編集部がオークションで5000円で落札したという1銭陶貨を見せてもらった。色は赤銅色で、直径はリップクリームのフタ程度。意外に小さい。厚さは一円玉を2枚重ねたくらいである。
 表面には雲のたなびく富士山と「壹」の文字。ネットなどでは、「材質の関係で複雑な図柄は避けられた」と書かれているが、「壹」の文字は小さく、しかも非常に精巧。技術の高さに驚く。裏面は桜の花に「大日本」の文字。床に落とすと陶器の乾いた音のなかに、なんとなく金属的な音も混じっていた。
 陶貨を指先に載せてみる。陶貨は軽いが、そこに凝縮された歴史は、重かった。

(ミリオン出版の雑誌に2010年2月くらいに書いた)

2010年4月19日月曜日

(墓88)尊敬される「皇室らしさ」は消えていくのか?

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尊敬される「皇室らしさ」は消えていくのか?
───南米日系人社会から考える愛子内親王「いじめ」報道

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消滅した学習院のコーポレート・アイデンティティ

 愛子内親王殿下の「登校拒否報道」や眞子内親王殿下のICU(国際キリスト教大学)入学などについて考えてみたい。
 この問題では、葦津泰國氏がメルマガ「斎藤吉久の『誤解だらけの天皇・皇室』」vol.122(3月15日号)に「日本の皇室が『私なき』存在であるという日本人の伝統的な信頼感が大きく傷つけられることになった」と書いている。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4792107/
 同感だ。
 登校拒否報道の問題点は端的に言って、(1)皇室の信頼感へのダメージ、(2)学習院側の対応への不信感、(3)皇室による子弟教育そのものへの懐疑――である。これらの負のイメージが、国民の間に惹起(じゃっき)してしまった。
 戦後、学習院は皇族子弟の教育機関ではなくなったことは、同メールマガジンvol.133にも詳しい。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4820450/
 しかしながら、法的根拠が消滅したとはいえ、皇族、そして国民の側にも「学習院」という固有名詞に内包される「格別な何か」はあったはずである。昨今のビジネス用語でいえば、CI(コーポレート・アイデンティティ)というものだ。しかし、事態は変わった。学習院のCIは消滅したようだ。
 かたや、少子化を受けて今やどの教育機関も存続の危機に瀕しているといっても過言ではない。旧帝大や早慶などの有名校には、確かに子供は集まるけれども、その子供たちの質といえば、これらの大学の学生が引き起こした各種の事件報道(強姦、麻薬使用、麻薬栽培など枚挙にいとまがない)や、彼らの実態をあげつらうまでもなく、情けない限りである。
 それはともかく、まさに憚りなく言えば、学習院もこのような在野の教育機関に成り下がったわけだ。皇族方の意識が学習院から離れ、皇位継承第2位にある悠仁(ひさひと)親王殿下の姉君であり、国民からの崇敬も高いと聞く眞子(まこ)内親王殿下までが、日本の国家像とは根本的に相容れないキリスト教を教育の柱とするICUに進まれる。まさに、学習院の失墜である。学習院は、法人としてのイメージ戦略に失敗したか、戦後も続いた「学習院は特別だから」という学外・学内の意識に安住して、何もしなかったかのどちらかではないか。
 一方、学校の「ブランド力」によって学生は集まるものの、学生の質の低下に悩む各校では、他校との差別化を図るためにも、今後は「皇族獲得」に躍起になり、ひとたびご入学を果たされれば、厚遇で迎えるだろう。


皇室不要論を助長させかねない

 皇室の祭祀は神道であり、天皇陛下はじめ皇族方が親しく祭りを執り行うことこそ、皇室祭祀の真髄なのである。ところが、将来、天皇陛下になる可能性の高い悠仁様の姉君がキリスト教を建学の精神とするICUに御入学するという。この事態には、「国家の危機」という危険性さえはらんでいるといっても、過言ではあるまい(私はキリスト教を否定しているつもりはない。私は神職を養成する大学の出身者だが、妻も娘二人もカトリックである。結婚式も正式な手続きを踏んで、当時住んでいたペルーのカトリック教会で挙げた。ここで指摘しているのは、眞子様のICU御入学である)。
 とはいえ、ヨーロッパへの留学の多い皇族方にとって、キリスト教文化・英語への意識的な垣根は、それほど高くないのかもしれない。仄聞するところによると、一部の皇族方は欧州御留学中に羽目を外しすぎたそうだ。
 学習院の失墜は学習院の失策だろうが、皇室にとっては必ずしも最上とは言えそうにない他の教育機関を選ばれたり、某カルト教団の影響やらがあるとか、留学中の恥ずかしい御振る舞いがある等という報道に接すると、どうも、いまの皇室もしくはその周辺には「私」というか、妙な個人主義が跋扈しているのではないかと危惧してしまうのは、私だけだろうか。
 しかしこれでは、醜聞まみれの各国王族と何ら変わりがない。日本の皇族方も、そのような方向性へ進むことは決定的なのであろうか。
 反権力に酩酊(めいてい)し、対案もなく、国家の方向性を議論することもせず、いたずらに権威に反抗することが良いことであるかのように(まるで子供のように)浅慮する、多くの「言論人・知識人」が盛んに喧伝するように、「皇室などいらない」というプロパガンダを助長させるだけである。
 学習院の失墜に見え隠れする問題は、ひとり学習院の危機ではない。古来、皇室を戴いてきた「日本」のありようを左右しかねないほど深刻な問題であると思う。


海外で皇室に敬意を抱くのは日系人だけではない

 天皇・皇室の存在を否定したがる日本の「言論人・知識人」に見て欲しいのは、外国、とくに南米で皇族方が受ける憧憬、尊敬の眼差しである。彼ら「言論人・知識人」は、日本の歴史と伝統を体現する皇族方が熱烈に歓迎を受けるその現場においても、「皇室はいらない」などと叫ぶ自信はあるのだろうか?
 ここで南米を例に挙げるのは、私の体験に基づく。ほかの欧米文化圏でも、一部の者が皇族方の歴訪に際して抗議運動を起こしたこともあるようだが、それは、まさに、皇族が日本の象徴、いや、日本の代表であると認めたうえでの蛮行であろう。皇室制度を批判したものではない。
 南米にはブラジルやペルーをはじめ、各国で日系移民が奮闘した歴史がある。そして、移住国での日系人の評価は高い。
 日本に住む日本人は、日系人を自分たちの同胞とは見なさない傾向があるようだが、しかし国外においては、日系人への評価は日本人の評価へと直結する。北米でも同じことがいえるのだが、日系人を日本人と明確に区別する意識は、一般的ではないのだ。
 戦後、日本製品が海外で受け入れられたのは、無論、製品それ自体の品質の良さもあるだろうが、各国の日系人への高い信頼を抜きには語れない。また、とくに南北アメリカ大陸では日本製品の販路拡大に日系人がどれだけ貢献したかを、日本の日本人はもっと知るべきだろう。
 近年、南米の各移住先では、日系移民の記念祭が相次いでいる。ペルーおよびペルーからの転住があったボリビアでは平成11(1999)年、ブラジルでは平成20(2008)年にそれぞれ日本人移住100周年を祝った。
 ペルーでの100周年の際には、筆者は「ペルー新報」の記者として同国で生活していた。そのとき、ペルーを御訪問された紀宮清子内親王殿下(当時)を迎える日系人はいうに及ばず、ペルー国民の畏敬の念と熱狂を目の当たりにした。
 100周年式典では、フジモリ大統領(当時)やファースト・レディーである娘のケイコさんらといっしょに、会場となったラ・ウニオン運動場(日系人が作った同国1、2を争う運動場)のグランドを一周された。
 筆者は、記者席ではなく、あえて一般席で取材をしていた。その方が、一般の人々の息吹が感じられるからである。
 フジモリ氏らにとっては失礼だが、紀宮様の放つ神々しさや清浄としか表現しようのないオーラのようなものは、まさに「別次元」であった。いつもは、権威に屈しないことを信条とするペルーのマスコミも、このときばかりは非常に好意的な報道をしていた記憶がある。
 伝え聞いたところによると、紀宮様は両国へのご出発前に、両国のこと、移民のことをかなり真剣に学んでいたという。


「日本のプリンシペ(王子)は心がきれいだ!」

 ブラジルの100周年の際には、皇太子殿下が御訪問された。
 私は、記念式典が行われたパラナ州のホーランジャ市に、その直後、(別件の)取材で訪れている。どこへ行っても、記念式典と皇太子殿下を熱く語るブラジル国民に接することしきりであった。
 ある写真館に寄ったときのことである。店主は日系人ではなかったが、開口一番、「日本のプリンシペ(王子)は凄い!」と語る。
 何が凄いのかという点を、話好きなブラジル人らしく、彼が熱く語ったところによると、記念式典でスピーチした州統領は、予定時間を過ぎても長々としゃべっていた。しかも、どうも自己宣伝が臭う話しぶりであったのに対して、プリンシペは簡潔に、移住者を受け入れたブラジルに感謝し、両国の友好を願い、移住者をねぎらうだけであった、という。
 これに、ブラジル人は感動したというのだ。「清々しい(心がきれいだ)」。
 投票で選ばれる政治家は、大なり小なり自己を宣伝しなくてはいけない。だが、皇族方にはそれはない。まさに、皇太子殿下の「無私」の精神が、ブラジル国民に感動を与え、日系人を感涙させたのだろう。
 付け加えるなら、皇族方が体現する「歴史の重み」というものは、世界にも例がないものである。それだけで、畏怖の対象になるのだ。


慰霊塔に刻まれた「日本臣民ここに眠る」

 再度、憚(はばか)りながら申し上げるが、紀宮様と皇太子殿下の御訪問に際して、日本政府から関係国に対しての経済援助などがあったわけではない。美辞麗句もなく、バラマキODAもなく、日本を象徴する皇族方が、その存在のみで、かくも盛大な尊敬の念を抱かれたのである。このことを我々は深く考えねばならない。
 日本が大国として世界に貢献できるとしたら、それは経済面だけではない。礼節や相互宥和(ゆうわ)、多宗教を認め合うといった「人間が人間であるために必要な部分」を示す、文化大国としての役割だ。これを体現しているのが、皇室外交なのかもしれない。
 「天皇に私なし」といわれるが、近年の日本では「滅私」はとかく評判が悪い。しかし、この美徳は海外にも通じるものだ。無論、南北米州大陸においては、日系人が血で築いた信頼がベースにあるからこそなのだが、いまだに南米各国では(ほかの国でもそうかもしれないが)、天皇陛下が国を統治していると思われている。
 たとえば、ペルー北部のランバイェケ県トゥマン日本人慰霊塔を探訪したときに驚いたのだが、「日本臣民ここに眠る」とスペイン語で書かれていたのだ。
 草も生えない荒涼とした砂丘のうえに、ひとり立つその十字架状の慰霊塔の台座に刻まれた「SUBDITOS(臣民たち)」というスペイン語を見たとき、自己を強烈に再認識した。いつか機会があれば、これからの世代の皇族方にも見ていただきたい慰霊塔である。
 愛子内親王殿下の「登校拒否」問題など、最近の皇室に関する「ニュース」は、諸外国でもかなりの頻度で報道されていると聞く。しかし、その「ニュース」の文脈に現れるのは、個人主義的な「思い」ばかりである。個人主義的な私心の示すベクトルは、南米で皇族方が受けた尊敬の念とは真逆を指している。



太田宏人(おおた・ひろひと) 昭和45(1970)年生まれ。國學院大學Ⅱ部文学部神道学科卒。ペルーの日系紙「ペルー新報」元日本語編集長などを経て、現在はフリー。隔月刊誌「SOGI」などに寄稿中。著書・編著書に『110年のアルバム:日本人ペルー移住110周年記念誌』(現代史料出版)、『知られざる日本人:世界を舞台に活躍した日本人列伝、南北アメリカ大陸編』(オークラ出版)など。

※上記記事は
メルマガ 斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」
http://www.melma.com/backnumber_170937/
Vol.134の掲載原稿に一部加筆したものです。

2010年3月8日月曜日

(墓87)海外布教史の再構築に一言

【曹洞宗】海外布教史の再構築に一言
太田宏人

 一〇月二七・二八の両日、曹洞宗檀信徒会館で同宗総合研究センターの第一一回学術大会があった。その二日目、同センター講師の小笠原隆元氏(長野県廣澤寺住職)が「曹洞宗国際伝道史の再構築」という題目で発表を行った。
 発表の要旨は、同宗宗務庁が昭和五五年に発行するも、その一〇年後の平成四年に同庁による回収図書(いわゆる発禁本)の指定を受けた『曹洞宗海外開教傳道史』についての概略、発禁本指定の経緯、その再構築に関する提案であった。
 自身も同書の編纂委員の一人であった小笠原氏は、発禁本となった理由について「一五ページから一二三ページ等に今日の人権意識に照らして、その意識の欠如、差別的な文言や表現があった」と説明した。小笠原氏は反人権・差別への一定の理解を示したうえで、「海外布教師(現・国際布教師)の長年の苦労が時代の流れによって消え行くのは残念至極」と述懐した。
 同書の発行後、各国に曹洞禅を標榜する禅グループが多数誕生していることにも触れ、これらの新情報を加味しつつ、同書に再考・再検討したうえで「宗門海外布教史の再構築を」と気勢を上げた。
 参加した宗務庁関係者は「学術的な内容ではない。宗門全体の総意でも何でもない、単なる個人的な意見表明だ」と一蹴していた。その是非はともかく、小笠原氏の主張そのものは正鵠を射ている。同宗の海外布教史を網羅的に記した書物は、同書が回収されている現状では皆無である。
 たしかに同書は貴重である。とくに戦前の海外布教に殉じた先人たちの血涙のにじむ記録が刻印されているばかりか、当時の各布教地からの報告書(現在では所在不明なものが多い)等も採録されていて、史料としての価値が高い。
 しかし、『曹洞宗海外開教傳道史』の再構築は慎重に行わなければならない。先述の人権を侵害する文言や差別記述をはじめ、南米最古の仏教寺院を開創した同宗の上野泰庵を他宗の僧と断言してしまっているなど、致命的な間違いが散見されるのも事実だからだ。また、自宗への愛着ゆえの結果か、他宗の開教事情との関連性への配慮に欠如した記述も見られる。海外布教史を再構築するならば、これらの問題点を再検証するとともに、戦前の大政翼賛体制へ組み込まれた宗門の動向を真摯にトレースする必要もあろう。
 とはいえ、当時の布教師たちが夢に見、身命を賭して行った海外布教の歴史を記した唯一の書を、いくつかの難点があったというだけで発禁本に指定し、そのままお蔵入りという処分は先人に対して礼を失するものであろう。さらに言えば、歴史に学ぶという姿勢の放棄ともいえる。記述上の問題点は再校訂を加えればよいのだ。それとも、曹洞宗は戦前の海外布教そのものをなかったものにしたいのであろうか。
 仮に一部の国や地域に対して宗門が加害者の立場にあったとしても、すべての国際布教がそうであったわけではないこともまた事実である。
 欧州や南米に曹洞禅がさらなる浸透を見せる今、同書の問題をいかに超克するかということは、同宗の今後の国際布教の方向性にもかかわってくる重要事項と思われる。
(「仏教タイムス」2009年11月12日号掲載)

2009年11月18日水曜日

(墓86)政権交代と我々のコミュニティーについて

●与党・民主党は外国人の味方なのか●
2009年8月の衆議院議員選挙の結果、民主党の鳩山由紀夫代表を首相とする現政権が発足した。政府が変わり、日本も大きく変わろうとしている(民主党は日本を変えることを選挙公約にしていた)。「中道左派」もしくは社会主義的とも称される民主党の政策を歓迎する人たちも多いが、否定する日本人も多い。民主党を嫌う人たちによると、民主党は「愛国心が薄い」「伝統的な価値観を軽視する」という。とくに、民主党の外国人参政権への容認姿勢は議論を呼んでいる。ただし、民主党の想定する「在日外国人」は、在日韓国・朝鮮人が主体である。とはいえ、与党・民主党の外国人政策は否応なく我々をも巻き込み、滞日外国人への日本人の視線は、今後も鋭敏化するだろう。
●我々は「かわいそう」なのか●
20年前、いや10年前を思い出してほしい。日本に住む外国人労働者とその家族に対する日本社会からの視線を。外国人を取り巻く様々な社会的な問題を。たとえば子供の教育問題を。これらの問題の解決のために関ってくれた日本人やNPOが少なかったことを。しかし今では、行政が主導し、これらの問題の解決にあたるということは決して珍しくはない。先日、ある県のある市が主催した「デカセギ児童の就学率を上げるためのセミナー」に出席したが、参加者(教員、役人、教育委員、大学の研究者)らの熱意と好意に満ちた議論に驚き、感謝の気持ちを持った。しかし同時に、強い違和感を抱いてしまった。なぜならパネラーの多くが、「デカセギの子供たちはかわいそうだ」「日本のデカセぎは、他の国での移民と比べると悲惨な状況にある」と発言していたからだ。たしかに、異文化の中での生活は大変だし、タフさも要求される。ときにはいわれのない差別を受けることもあるのだが、我々は「かわいそう」な存在なのか。
●生活保護はすべての納税者の当然の権利●
昨今の不況で職を失い、失業保険手当をもらったり、生活保護手当を受けている外国人もいるだろう。だが、私はあえて、外国人自身が必要以上に「かわいそうな外国人」を強調することに疑問を呈したい。日本人の多くが外国人を受け入れ、友愛に満ちた隣人となってくれるわけではないのだ。むろん、失業保険にしろ生活保護にしろ、そのための財源(税金)を日本人と等しく負担していれば、これらの社会保障の恩恵に浴する権利は外国人にもある。憲法も、外国人の基本的な人権を認める。しかし今、多くの日本人が「外国人には生活保護を受ける権利はない」と叫んでいるのだ。言うまでもなく、我々に関して言えば、彼らの主張は間違っているのだが。ただし、この国でもっとも多い外国人である在日韓国・朝鮮人に関しては別の論点から考える必要がある。彼らは歴史的にも特殊な事情を抱えているため、数々の特権が認められてきた。たとえば、たとえ金持ちであっても不当に住民税が減額されていたことが知られている。故意に働かずに生活保護を受ける者もいる。一方、我々には彼らのような特権などないし、まじめに働いている。しかし、外国人を嫌う日本人にとっては「外国人は皆一緒」らしい。このような状況で、我々自らが殊更に「私たちはかわいそうです。ご支援ください」と強調すれば、さらに多くの日本人に間違った観念を植え付けることになるのではないだろうか。
●我々は日本に貢献する存在である●
ダイバーシティ(多様性)の重要性が注目されている。生物(自然)の多様性だけではなく、エスニシティの多様性や、職場内の就労者の多様性(年令、性別、人生経験)を大事にしよう、という考え方だ。ダイバーシティと深く関係するのが、サステナビリティ(持続可能性)。環境や人間生活、雇用などを論じる際にサステナビリティは欠かせない用語である。そして、サステナビリティの要【かなめ】はダイバーシティである。当然、日本という国、社会の持続可能性を考える際にも、多様性は重要なポイントといえる。そして、我々のコミュニティーの持つ「タフさ」「柔軟さ」「国際感覚」「移住経験」は日本に多様性をもたらすことを強調したい。労働力の寄与は言うまでもないが、我々が日本に住むことは、日本にとってのメリットなのだ。「かわいそうな外国人」という主張をやめろとまでは言わないが、我々の存在価値が政治の世界に伝われば、我々に対する政府の政策も変わってくるだろう。これまで与党だった自民党の戦略は、橋や道路、ダムを造る代わりに「自民党に票をください」というものだった。だからこそ、選挙権のない外国人には何もしてくれなかったわけだ。だが現与党である民主党は、自民党の政治スタイルから脱却し、「国家のために」という観点から政策を決めるという。ならば、我々の声も政府へ届くはずだ。
●先人の教訓に学ぼう●
ここで思い出すべきことは、我々には先人が残した教訓があるということだ。そのうちの一つが、日本人移民と政治との接近である。100年以上前にペルーに渡った日本人たちにも選挙権などはなかったが、ペルー政府の要人との関係を深め、日本人のペルー社会での地位向上に努力している。ラテン・コミュニティーが日本で誕生してから20年。もはや一時的な出稼ぎ労働者ではなく、我々はこの国で生活を続ける定住者である。そろそろ我々の声を政治の中央へ届ける時期ではないか。
Convenio Kyodai 2009年10月会報掲載

2009年9月1日火曜日

(墓85)樋口一葉という深い森

あとがきにかえて


 樋口一葉をちゃんと読んだことはなかった。
 雅俗折衷、文語と口語、古語と(一葉が存命中の)現代語が混在し、王朝文学ばりの流麗さと自然主義の硬質な叙情が織りなす文体は一種独特でとっつきにくい。大きな辞書に載っていない言葉も少なくないうえ、明治時代の風俗風習、ローカルな地名も山盛り。会話には「」が使われないから、いま誰が喋っているのか心の中の独白なのか、一葉さん個人のコメントなのかも不明だ(彼女は時々、登場人物の台詞にツッコミを入れる)。一葉の表現を借りるなら《ことばうやむやしりめつれつ》詞有哉無哉支離滅裂|である。
 だからこそ、現代語訳が刊行されているのだろう。しかし、原文の芳醇な香りは薄らぎ、異質なものに変貌する危険はないだろうか。やはり、原文で味わいたいものだ。
 しかし、原文をすらすら読むことは学者でもない我々には難しい。そこで本書では脚注をつけたほか、句読点や注釈記号の配置を工夫し、会話部分を読みやすくした。歴史的仮名遣い(旧仮名)については音便変化を採用。「ょ」「っ」等を小書きにしている。つまり、「読みやすい原文」に再編集したわけだ。いまだ試行錯誤な部分もあるが、樋口一葉という豊かな森――有名ではあるが、いつの間にか人跡まれになっていた――を散策するには、こういう道の辿り方があってもいい。
……◎……◎……
 樋口一葉は今から百年以上も前の明治二九年、数え年二十五歳という若さで死んだ。肺結核だった。今で言ったら、女子大生が卒業するとかしないとか、そんな年齢だ。時代背景が違うにしろ、早すぎる。
 本書には、森鴎外らの絶賛を浴びた代表作「たけくらべ」はじめ、いわゆる一葉晩年の「奇跡の十四か月」の作品群を中心に、十一編の小説を収めた。ただし、多くの物語がハッピーエンドを迎えない。ここに、一葉の抱える闇もしくは、大人の女の情念を感じた。
 子どものころに読んだことがある人もこれが初めてという人も、彼女の情念の森に、いまだからこそ迷い込んでみてはどうか。この森の深部には、大人にしかたどり着けない秘密の場所が、あるのかもしれない。

(編集担当・太田宏人)
『原文で一度は読みたい樋口一葉』 (OAK MOOK 212)オークラ出版 (2008/5/23)